東祖谷と三嶺・探訪絵日記その6
▲TOP  | 戻る| 次へ|
代々続く家にはその重みが家屋の造りに現れる。先祖が住み着いて約800年。今も伝統が息づいている(木村家)。
自給自足に近い生活をしている人もいる。
奥祖谷のかずら橋。西祖谷山村のかずら橋よりはかなり奥にある。ここまで来れば剣山見越まであとわずか
この辺りまで来れば祖谷川も源流に近づいてくる。無数の支流が合流している。
家長を中心とする大家族制度の名残は今もある。しかし近年ではフィリピンから花嫁さんを迎えるなど過疎対策、後継者対策が取られている。
見上げるとかなりの巨木だ(木村家)。
池田町の黒沢湿原ではサギ草が自生する。地元有志の保護運動が奏功した。

 昭和40年当時の祖谷の風景

 飛騨の白川、日向の椎葉とならんで日本の三大秘境といわれる祖谷。そこには、2600戸、12000人が山肌に寄り添うように暮らしている。平家の落人が住み着いた祖谷の集落の家々は由緒ある構えが多い。

 阿佐氏は平家の頭領の子孫。今でもことあるごとにその一族郎党が勢揃いする。平安時代、都の貴族生活になじんた貴人の子孫たちには受け継がれたきた礼儀作法がある。手打ちそばでさしそばの宴を催す。農作物が少ない地方なのでそばは何よりのごちそう。人が集まると、ひとつのお椀で互いにそばを食べ交わす。一族の団結の象徴である。

 祖谷は刻み煙草の産地。40度の急傾斜で育つ葉たばこは阿波葉と呼ばれ名高い。池田町に専売公社があったときは池田の町は相当賑わった。
 池田町の人口は当時28,000人。高知と瀬戸内をつなぐ扇の要に位置し、太平洋の魚も瀬戸内の魚もその日のうちに池田の魚市場に集まってきた。
 魚市場で仕入れた行商の車は山の村々へと急ぐ。陸の孤島の祖谷にも祖谷川の電源開発が進んで奥へと道路が付いた。行商はメガホンで呼びかける。「お魚が来ました。お魚ですよ。アジやサバ、ハマチやサンマの刺身があります」。すると家々から女たちが出てくる。道路ができてからは祖谷でも生の魚が食卓に上がるようになった。

 大歩危渓谷は自然が作り出した岩の芸術。あずまたきさん(村の教育長の奥さん)が川下りのガイドを買って出る。自慢の喉を聞かせながら観光客は大歩危小歩危を堪能する。昭和48年に早明浦ダムができるまでは手ですくって飲めるほどの流れだったに違いない。

 大正年間まではかずら橋は対岸を結ぶ生活橋だった。しかし観光立村を掲げる今では、村長自らが観光客を迎え入れる。踊りの効果音担当は村の総務部長となり、かずら橋下の河原では婦人会の振り付けで祖谷の粉挽き歌の踊りが始まる。
 熱く熱した石にみそをおいて生きたアメゴを載せる。ひらら焼きである。全村を挙げて歌と踊りと郷土料理で観光客をもてなす。
 
 阿波池田町立出合小学校祖谷分校は生徒11人の小さな学校。傾斜地にある20坪もない猫の額ほどの場所で運動会。どの競技にも生徒は全員出場。やがて運動会の場はPTAの慰安会となる。日頃山仕事の技を競う親たち。一等賞のおとうさんを晴れがましく見つめるこども。親と子の心が溶け合い分校の運動会である。

 吉野川上流域は有数の地滑り地帯。祖谷の中内家では地滑りのため、1年に30センチ地盤が下がる。1日の始まりはジャッキで家を持ち上げる作業から始まる。無邪気にもこどもたちは傾いた縁先でおもちゃの自動車を走らせる。

 地滑りを遊びに取り入れる無邪気なこども。しかし大人はそれでは生活できない。地滑りに勝てず廃屋となった家々もある。地滑りに加えて年間30万円の収益しか上がらない山村の畑。離村する一家は後を絶たない。「ご先祖様に申し訳ない」と言いつつも山を降りざるをえない。平家の落人が移り住んで約800年。その暮らしが少しずつ崩壊している。観光客がやってきた同じ道を今度は村人が出ていく。

 年ごとに小さくなっていく祭りの輪。神代踊りの夜、一心に村人は踊る。そうすることですべてを忘れようとするかのように。来年は、さらに何人かが踊りの輪から消える。
 
→東祖谷と三嶺・探索絵日記その7へ

Copyright(c)2001, Sanson to Toshinokai, All Rights Reserved
  Photo and web designed by offioe soratoumi