早明浦ダムに沈んだ村〜高知県大川村 筒井正男さんを訪ねて
 筒井さんは、大川村の元教育長で早明浦ダム反対運動を長年続けてきた。早明浦ダムに関する生き字引であり、反対運動に関する貴重な資料を保存されている。1994年夏、異常渇水により早明浦ダムが干上がろうとしていた。そこで、筒井さんの話を伺いに吉野川を遡った。

 ダムができる以前の川は、生活に密着した地元民の憩いの場だった。魚取りをしたり休憩をしたり水泳をした。平坦地を流れる四万十川と違ってこの辺りの吉野川は、緑泥片岩と急流が見事な眺めをしていた。ダムができることが決まってからは、水没する流域の岩は、許可をとれば売ってもいいことになったので取り放題で売り飛ばした。川から岩をとってしまったので、流れがまともに当たる岸は崖崩れの原因となった。

 ダムができて21年になるが、現在でも崖崩れがある。満水時には木の生えているところまで水が来る。ゲート操作によって急激に水位を下げると、水で緩んだ地盤が崩れてしまう(湛水地滑り)。 ダムが昭和48年に完成してからも、湛水地滑りのため、立ち退きを余儀なくされた家が22戸ほどあった。隣の土佐町でその被害が少なかったのは岩が多いためかもしれない。地滑りの原因はダムの水位の変移である。しかし建設省はこれを認めようとしない。

 水没した大川村の村役場は、ダム反対の砦とするため、ダム建設の話が持ち上がってからあえて建てられたもので、大洪水でも水没しない位置にあった。結果的にこの役場は、建築後数年でダムの底に沈む運命となった。今ではダムの堆砂がすすみ、建物のあるところがダム湖の湖底となっている。

 ダム建設をめぐり、流域の本川村、大川村、本山町の3町村は、それぞれ立場に違いがあった。村のほとんどが水没する大川村は「反対」。当時の中内高知県知事が、早明浦ダムが浦戸大橋の交換条件になっているからぜひ承諾してくれと、説得に乗り込んできたこともあった。村長は、建設省の役人に村役場の敷居をまたがせなかった。土佐村は、村人が納得するような補償が実施されればと「条件付き賛成」。本山町はダムの下流域で水没しないこと、発電所が建設されればその固定資産税の収入が見込めることから「賛成」にまわった。

 反対運動の甲斐なく、ダムの堰堤が本山にできあがってからは移転補償も現実問題として視野に入れなければならず、この面で3町村がバラバラであったことから、補償問題に対しては合同で取り組むことにした。しかし、水没する役場などの公共補償も個人補償と同等基準になってしまって失敗した。村人はできあがりつつある堰堤を見て、こうなっては最後、せめて十分な補償をと、自分の家のことで精一杯になってしまってそこまで手がまわらなかった。

 本山町にとって、予想していた程の固定資産収入はなく、ダム完成後、濁りに悩まされることとなった。これは、上層部の湖水を放流するという選択取水装置をつけてからは改善された。しかし本山町の本音は、「ダムは失敗だった」という。国が約束したような利点よりも弊害のほうが多かった。

 渇水といっても、昭和8年の大渇水の時と今回の渇水とは違う。前回は、沢の水が枯れることもなくいたるところで湧き水があり、実害はほとんどなかった。その原因は戦後、特に昭和30〜40年代にすすんだスギ・ヒノキ林への転換政策である。クマザサを枯れ葉剤で枯らした後、一斉に植林をした。植林後3〜4年経つと山が崩れだした。スギ、ヒノキは根の張り方が小さく、雑木は根の張りが大きい。

 切り畑農法というのをしていた。切り畑というのは一種の山焼きで、焼け山は肥沃なので稗、そばを育て、あくる年には小豆にする。その後、みつまたを植えて3年目に株切りをする。みつまたの林のなかで小豆は育つ。この10〜15年をひとつの循環とした。20ヘクタールくらいの山を持っていればそれで生活できたが、山を持たない人は、小作となって3分(30%)を地主に渡した。私は山を4か所、20町歩買って20年経つが、元値では売れない。この歳(80歳)になって手入れもおっくうになった。少しずつ雑木への転換を進めているところである。

 吉野川で当時住んでいた魚は、コイ、サツキマス、アユ、アメゴ、ウナギ、ゴリ、オコゼ(ナマズみたいな魚)、イダ、ハエ、ゴーダ(赤むらさき)、アサガラ(砂の色をしている)、マスなどであった。当時は突いて採ったものだが、アユを百尾突くのは造作もないことだった。

 ダムによる補償金を貰った村人はどうなったかというと、悲惨な人生を送った人も少なくない。「そんな大金みたことない」というような金額を一度に貰ったものだから、高知市や南国市に出て慣れない商売を始めてみたものの、事業に行き詰まって自殺した人、倒産した人、家族が崩壊した家庭などがある。
 こんな傾斜地では代替地を確保するのが困難なので、建設省も広い都市部で土地を探すよう、高知市などへの遠距離移転には補償額を上乗せした。

 村の人口は昭和48年にダム完成後、激減した。往時は四千人ぐらいいた村の人口は、ダムができてからは急激に減りはじめ、今では七百人を切った。ダムがなければ人口はこれほどまでに減っていなかっただろう。何分、移転したくても移転の費用がなかっただろうと思われるからである。
(以上、筒井さんのお話から)

 干上がった湖底にたたずむ役場を見ようと、大勢の観光客が押しかけた94年7月。建物に上がる人もいてダム始まって以来のにぎわいとなった。全国にも放映された一コマである。
 筒井さんは、年齢をまるで感じさせない艶のある顔色で、長年反対運動にかかわってきたとは思われないような柔和なお顔をしている。グラフや写真をひもとく合間に冷たいビールや麦茶をすすめてくれる。朴訥ななかにも優しさを感じさせるお人柄である。
  見せていただいた写真のなかに、昭和40年頃と思われるカラー写真があった。澄んだ水を豊かにたたえた深い渓谷は、とても上流部とは思えないほど水量が多い。その河畔の高台に建てられたのが、筒井さんの話に出てきた「ダム反対運動のために水没予定地にあえて建てられた村役場」である。それが今では干上がった湖底に埋もれようとしている。三十年の時の流れは、村を崩壊させ、川を殺し、これだけの土砂を堆積させた。

 取材を終えて帰り道、ダム湖の橋をわたろうとした時、ぼくの目はくぎづけになった。視野に映る景色の上半分は、青い空、緑の森。それはちょうど、向井千秋さんが宇宙から見た美しい星・地球を象徴するような風景である。ところが画面の下半分は、火星の砂漠のように殺風景な赤茶けた世界。これはいったい何を表しているのだろうか。

 筒井さんには長生きをしてほしい、と思わずにはいられない。吉野川については、自分たちが引き継ぐ番であると思った。

 「四国の川と生きる」のなかで「吉野川の源を訪ねて」にも写真入りで詳しく紹介しています。