早明浦ダムに沈んだ村

吉野川の源を訪ねて

 白猪(しらい)谷を遡ること数時間。沢が細くなってくると、苔むした岩からひとすじの水が湧き出ていた。
 瓶が森の南斜面に発した小さな流れは、多くの支流を集めて四国三郎吉野川となる。海に向かって198キロメートルの水の旅の始まりである。

 吉野川の上流は、豊かな水量と深い渓谷を持つことから多くのダムが作られた。四国の水瓶といわれ、日本有数の貯水量を持つ早明浦ダムが建設されたのは昭和四八年である。

(干上がった早明浦ダムに姿を現した村役場)

 日本列島が深刻な渇水に見舞われた1994年、巨大な早明浦ダムが干上がろうとしていた。ダムの底から姿を現した三階建ての建物は、高知県大川村のかつての役場である。今回の渇水では、多くの人がこの建物を見るため訪れていた。建物の屋上に上がる人もいて、ダム始まって以来の賑わいである。

 大川村は、村全体が水没することから、ダム建設に反対してきた。当時の様子を伺うため、村の教育長をしていた筒井さんを訪ねた。筒井さんは齢八十を越えるとはとても思われないほどお顔に艶がある。穏やかな口調で昔の村の写真を次々と見せてくださった。そのなかの一枚で、水遊びをする子どもたちの写真が目に止まった。

(筒井正男さん、当時80歳。お元気です)

 川を土嚢でせき止めたのか、天然の瀞場なのか、子どもが水遊びをするのに恰好の場所があった。二十人ばかりのいがくり頭とおかっぱ髪、みんな真っ黒に日焼けして石ころだらけの河原に集まっている。はだしの足元から砂利がこぼれ、口元から白い歯がこぼれた。
 年長の男の子は高い岩に上がっては、ふうと息をつき、横目でおさげ髪をちらりと見ると、ここぞとばかりに水しぶきを上げた。流れを読み、岩影にできるわずかな淀みで休み、川を斜めに横切っては岩から岩へと伝い泳いだ。流れの落ち込みで発生する巻き込み波でぐるっと回ると、底を蹴って流心をはずれ、岸辺の反転流を利用して上流に向かった。

 水遊びが一段落すると、陸に上がって甲羅干しをし、むらさき色の唇に色が戻るのを待った。せみはせせらぎを聞き、せせらぎはせみの声を響かせた。川辺の葦にすねを切られる子もいたが、よもぎの葉をつけるまでもなく、冷たい水が洗い流してくれた。
 河原には、学校の先生や、親たちが交代で詰めていた。プールのない山村では、川は子どもたちの絶好の遊び場所となった。それでも日暮れには川で遊ばなかった。河童が遊ぶ時刻だから邪魔をしてはいけないのである。

(筒井正男さん提供)

 叱られて家を飛びだしてきた
 やごはとんぼになる さなぎは蝶になる 幼虫はせみになる
 みんな羽をむしってやる
 あぶらぜみが捕まった 黙って羽をむしられるだけ
    さあどうぞ きみのために
    空とべなくても なかない
    なきたくてもなけない
    ずっとおおぞらにあこがれていた
    ぼくのはねをきみにあげよう
  子ははねをむしった
  そしてせみのお墓をつくった
  夕暮れの河原の岩 ひざをかかえて鼻をすすった
 (河童に食べられたらいいんだ)
 そのとき人影があらわれた
 「家まで走ってかえるぞ」
 大きな腕に抱えられた

「子どもたちの歓声が聞こえてきそう!」
白黒なのに、空の色が見える気がした。
「大人も子どもも、川で遊ばしてもろうた。鮎を百尾かけるくらい造作もなかった。川が唯一の娯楽の場だったんよ」
 この流れの下で鮎がひしめいていたのは昔話になってしまったのだろうか。

 対岸へ渡るのに、自分で綱を引く渡し船の写真があった。

(筒井正男さん提供)

「こんな川船があったんですね」
「物資の輸送に使うとったもんですわ」
峠を越えていく人力車の写真である。
「荷車が険しい山道を越えてますね」
「村へ入るんも、出ていくんも、この道しかなかった」

 昭和四〇年頃に撮られたカラー写真があった。深く澄んだ渓谷が映し出されている。水量はとても多い。その左隅に写っている建物が当時の大川町役場だという。
「小高い川岸にあって、はるか下に水が流れとるでしょ」
役場は、どんな大水もこの位置まで来ることはなかったという高台にあり、ダム反対運動の拠点とするため、ダムの計画が持ち上がってからあえて水没予定地に建てられたもの。しかし建築後数年でダムの底に沈む運命となった。

(左下の白い建物がかつての村役場)

(1994年、土砂で埋まってしまった)

 ところが1994年、泥に埋もれた湖底から役場が顔を出した。水没してからおよそ二十年振りのことである。
「途方もない量の土砂がダムに堆積したんですね」
「造ったときには想像もできなんだ」
 筒井さんは、人口の推移をグラフ化したものを見せてくれた。往時は四千人を越えていた 大川村の人口もダム建設後は激減し、今では七百人を切った。
「ダムの問題は一筋縄ではいかん。ダムの下の村は、電源開発の交付金が入るっちゅうて賛成にまわった。こんなに川が濁るんだったら、賛成せなんだらよかったって今では言っとる。最後まで抵抗した大川村も、一軒また一軒と立ち退いていった」
 コンクリートがせき止めた巨大な水塊に没した村。幼なじみや知り合いがいて、いつでも帰ってこられるのが村だった。帰る場所をなくした村人はどこへ行ったのか。
「見たこともない大金を手にして村を出たもんの、慣れん事業に失敗して悲惨な人生を送った人間も少のうないですわ」
 渇水で姿を現した廃墟見たさの観光客でにぎわう湖畔道路。その下をわずかに流れている泥水。これが今の故郷である。
「昔はもっと雨が降らん年があった。そのときでも谷の水は枯れなんだ。今や谷そのものに水がない」
 筒井さんは、冷たい麦茶をすすめてくれた。
「雑木を切って植林したもんじゃけん、水を溜める力が落ちた。林業ではもはや採算がとれん。手入れできんと荒れる。悪い循環じゃ。これではいかんと何年か前から雑木を植え始めた」
 
 春が来れば苗代を作り、稲を育てて、収穫の秋を迎え、山に入って薪を切った。仕事の合間に道具の手入れをし、用水や畦を補修した。川で釣りをし、森できのこを採り、枝打ちして薪を調達した。人と自然が搾取・破壊の関係にならずに、親密に結びつきながら営まれてきた数百年。親から子へ、そしてそのまた子へと受け継がれていった作業があった。ダムがなければ村人はずっとそこに住んだろう。

 岩のあいだから音がきこえてきます
 かくれているのは水のいのち
 これから川となって海へ下るしずくでした
 谷間に夏の陽が射してきました
 水の子は旅に出ることになりました
 山の小びとは一人ひとりに声をかけました
 だれにでも分け隔てなく接しなさいよ
 何も減らさず 何も加えず
 山の神様の贈り物を届けてくださいよ

 水を粗末にするなと教えてくれた人たちは山を下りてしまった。山の言伝てが海に届かなくなって半世紀が過ぎた。

 人は二十歳過ぎまで教育を受け、社会人となって働きはじめ、やがて家庭を築く。その過程で学ぶことを忘れ、感性を閉じ込め、社会の形式に自己を埋没させてしまう。どうしてそうなってしまうのか。
 それは、生活設計がやり直しのきかない直線になっているからではないか。人生九十年ともなれば、退職してからの時間が数十年残されている。その時間をどう過ごせばいいのか。
 もしかして、他に自分の生きる道があったのではないか。自分がやりたいことは他になかったのか。社会から排除されることを怖れて、自分が傷ついていると人に言えなかったのではないか。ひとりの人間としてみたいこと、家庭人として果たすべきこと、社会人として望むことの間に距離はなかったのか。

 水はめぐり、季節は繰り返し、いのちは世代交代をする。それが自然の本質であるならば、人と自然の共生とは、何千年、何万年もかかって繰り返されてきた循環する時間をヒトの一生に取り入れることではないだろうか。
 循環する時間とは、一生のうち、何度か必要になる充電期間のことかもしれない。ボランティア活動、家族と絆を深める時間、自分の新たな可能性を試すための準備期間、若い時しかできないこともある。例えば、長い放浪の旅に出る…。
 そんなふうにやり直しのきかない直線的な生き方から、循環的な生き方へ変えてみる。間違っていたら人生は何度でもやり直せる、そのことに気づくこと。それが生き甲斐につながるのではないか。だとすれば、筒井さんは生き甲斐を見い出しているのではないか。
「大変でしょうけど、きっと未来の子どもたちに感謝されますよ」
「そう思て年寄りもやってますわ」
 どうそお元気で、と辞した。ぼくは雑木林が水を育んでいるだろう、未来のこの村を想像した。

 ダムとともに泣き笑いの人生。
 おだやかな微笑みは絶えることはなく、
 人と自然の共生は循環する時間のなかにある──。

(荒廃した河床と緑の山…)

 ダム湖にかかる橋を渡り終えようとして、異様な光景に目が止まり、車を飛び降りた。目に写る画面の上半分は、青い空と緑の山。けれど、水が引いた下半分は泥の砂漠。このコントラストはいったい何だろう。
今回の渇水では、ダムの恩恵をもっとも受けていた高松市が水不足に悩む結果となった。早明浦ダムの完成後、讃岐平野ではため池が次々と埋め立てられた。これに対して、独自の水源を持つ市町村では渇水はそれほど深刻なものにはならなかった。この明暗は、巨大ダムに頼る水源開発の限界をはっきりと示している。

 香川には満農池という大きな池がある。この池は、今日でも通じる高度な技術思想と大勢の人足を動かした情熱の人、空海によって修復された。密教を究めて自然の摂理を肌で感じ、俗界で最高の地位に昇りつめながらも、いつも人々と共にあった彼が生きていたなら、讃岐平野のため池をつぶすようなことはしなかっただろう。

 水を厄介物にして「早く出ていけ」と追い立てずに、「もう少し遊んでいけ」と歩かせる──ため池を作り、森や田に水を貯えてきた日本人。それは、時間的に変化する水量を空間的な広がりの中に貯え、時間をかけて対処することで、自然の変動のリズムに対応しようとしたものだった。
「今からでも遅くない。昔の人の智恵に学べ」
 再び地上に現れた村役場は、そう問いかけているように見えた。長い年月をかけて綴られた山村の暮らしには、箴言が隠されている。 

(大川村 大座礼山上空3千メートルから見た早明浦ダム/カシミール3Dの仮想映像)

(画面左が北。下が上流、上が下流)


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