「屋久島紀行〜楽園の扉を開く」〜その2
                     
小杉谷栄枯物語

 白谷雲水峡から歩くこと二時間、線路が敷いてあるトロッコ道に出る。この辺りを小杉谷という。かつては屋久杉の原生林が密生していた谷であり、林業をなりわいとする人々の集落があった。
 小杉谷に暮らす家族にとって、一六キロメートル離れた安房の町に買い物に行くことが楽しみであった。杉を伐りだして運んでいたトロッコ列車に揺られながら(今でも車道は通じていない)山を下りる。鹿児島市内でさえ、水道や電気が普及していなかった戦前、小杉谷には立派な小学校があり、各戸に水道と電気を引いていた。突然、深山に出現した別天地の趣があったらしい。
 屋久杉の宝庫といわれた小杉谷一帯も全山伐り尽くされ、杉の墓場と化すと、最盛期は八百人以上が住んでいた小杉谷集落は、昭和四五年の事業所閉鎖とともに姿を消した。小学校の運動場跡を見ていると、往時が偲ばれる。現在の小杉谷には、植林された若い杉が育ちつつある。

 トロッコ道ではたくさんの登山者とすれ違った。早朝に高塚小屋を出た人たちだろう。ところが…。「おや」「あっ」。すれ違いざまに声が出た。見たことがある顔だ。信州に住んでいる野田さんの甥っこさんだ。野田さん(カヌーエッセイストの野田知佑さんのこと)と甥っこさんは、先月、吉野川シンポジウム実行委員会が主催したイベント「吉野川発 未来の川のほとりにて」の応援に駆けつけてくれたばかり。このイベントは全国から五百人が参加し、カヌーや竹林の散策を楽しみながら、長良川河口堰の愚行許すまじ!との掛け声を上げた。甥っこさんとは、火を囲んで酒を飲んだ。この出会いをぼくは予想していた。それは駐車場に野田さんがいつも徳島に乗ってくる青いバン(シオマネキやサツキマスのステッカーを貼り、カヌーを上に積んである)があったからだ。「車を見ましたよ」「え? 淀川小屋から縦走してきたんですよ」「ということは、下に置いてある車は?」「おじさんは来ていませんよ」と彼。「なら、前田君(野田さんの親衛隊の大学生)かも」「彼だったら、いま鹿児島にいないはずですよ」

 結局、だれが野田さんの車に乗ってきたのかはわからなかった。彼とは最終日に港でも出くわした。
 一時間少々で平坦なトロッコ道は終わり、本格的な上りに入る。ここからは木の根っこにしがみつきながらの胸突き八丁が続く。ところどころにはしごが設けられている。これだと登山者の足で木の根を傷める怖れは少ない。一五分でウィルソン株が見えてきた。大きな切り株のなかに水神が鎮座しており、泉が湧きだしていた。その水を口に含む・・うまい! うろのなかから天を仰ぐと、この切り株を土台に何本もの杉が伸びている。
 杉の落ち葉には自らの種子の発芽を抑制する作用がある。屋久島では七割は倒木の上に発芽し、そこを住まいとすると報告されている。親木が倒れることによって日光が射しこみ、若い木が伸びる場を提供する。倒れた先祖の上に何本もの若杉が伸びているのがあちこちで見られる。親木は子木に場所と養分を提供している。何とも不思議な世代交代の方法である。
 アメリカのウィルソン博士によって紹介されたこの切り株は、約四百年前に七人の村人によって切り倒された記録が残っている。切り屑は付近の谷で今も腐ることなく見つかるという。

 白谷雲水峡を出たのは一三時過ぎ。泊まる予定の白谷山荘にはなぜか鍵がかかっており、仕方なく高塚小屋まで歩くことにした。小屋までは時間にして四時間程度と予想された。ウィルソン株に到着したのは一六時四五分。一昨日の宮之浦岳往復で疲労した足の筋肉には、荷をかついで木の根っこを踏みしめながらの急登はつらい。鬱蒼とした森は霧に包まれ、地面はすでに光を失いつつあった。地図を見ると縄文杉、高塚小屋まではまだ二時間半かかるとある。底知れぬ深い森をヘッドランプの灯を頼りに進むか、木のうろを見つけて野営するかの選択を迫られていた。

 一七時三五分、突然、巨木が目に飛び込んできた。大王杉である。推定樹齢三千年、縄文杉が見つかるまでは最古の杉といわれていた。この風格、言葉では形容できない。霧をまとった物言わぬ巨木、はるかな時間、ここに仁王立ちしているその姿は、大きな口を開けてうなっているように見える。けれどなぜか、なつかしい感じがした。見守ってくれている、と思うと元気が出た。森はまだ暗くならない。依然として足元は見えている。あと一時間ぐらいか。続いて、夫婦杉が現れた。二本の木の枝が合体していて、手をつないでいるように見える。

 屋久島の夢がかなえられたのは一八時五分。蒼古の森にひっそりとたたずんでいる樹齢数千年の杉がいた。地球の黎明がこだまする夕刻、森の霊気とともに、老木の心がわかるような気がした。

 縄文杉はあまりに多くの人から愛されたため、人格を持つようになった。それは縄文杉を見ようとする人の意識の集合体が見せているのかもしれない。ぼくの目には、縄文杉は両手を上げて何かを掴もうとしているように見える。ずんぐりとした幹は太くふしくれだっている。その姿は神ではない。だから、「見る」のではなく、「会う」のだ。写真ではその真価はわからない。深い森を何時間もかきわけて会いに来る者、特別の感情を持って見ようとする者にだけ、その心を開く。全景を収めようと広角レンズを使えば、細部が失われて形が歪み、堂々とした風格は失われる。むしろ、標準レンズから八五ミリレンズで部分的に捉えてつないでいくのがいい。そして背景の森を映しこむことにより、大きさが浮かび上がる。

 昼間の登山客の喧騒がうそのように、暗くなって人けの消えた時間に、見せ物の仮面を脱いで縄文杉に生物の表情が蘇る。このように日が落ちてから縄文杉と対面することになったのは、白谷山荘が締まっていて予定変更せざるを得なかったからだが、翌日の帰りに寄ってみると戸は開いていた。考えてみれば、山小屋に鍵などかけるはずはないし、閉鎖中との表示もない。戸が開かなかったのは縄文杉の念力ではないか、と思える。夜のとばりが降りるころ会いに来い、と杉が意思表示したのかもしれない。きっとそうだ。


 朝の縄文杉(六日目)

 雨はときどき降ったり止んだりしていた。ぼくは心地よい肉体の疲れと、精神の興奮のはざまで寝つかれず、一晩中うとうとしていた。完全な闇が支配し、自分の掌さえ見えない。目を開けているのか、閉じているのかもわからない。明るくなった午前五時五〇分、小屋を出て、縄文杉に会いに行った。奇しくも時計を見ると、夕べと同じ時間(一八時五分に対し、六時五分)だった。異なるのは、夕べは雨の降る森の霧をまとい、今朝はすでに登山客がいた。彼らはワイワイ言いながら記念写真を撮ると立ち去った。その瞬間、雲間から朝の太陽が顔を出し、縄文杉の顔を照らした。朝の赤っぽい斜めの光のなかで、縄文杉は化粧をしたかのように艶やかな表情---何人もいた他の登山者には見せなかったもの---を見せた。太陽に向かって精一杯手を伸ばしているその姿を見ると、元気でいてください、と祈らずにはいられなかった。

 白谷雲水峡を下山して、宮之浦の町に戻ってきた。再び、島の南をめざして車を走らせる。雲ひとつない快晴の一日である。
 平内海中温泉は波打ち際の岩場に湧きだしている四三℃の湯である。満潮時には海中に没してしまうので、干潮時、それも海の水と混じり合って適温になった時刻に出かける必要がある。午後四時ぐらいに着くと湯船を波が洗っていた。もはや湯とは呼べないが、冷たくないので入れないことはなかった。この温泉は平内地区が管理している。現金箱に寸志(百円程度)を入れれば誰でも入れる。脱衣所がないので女の子は昼間入りにくい。ぼくの友だちの女の子たち(やっちゃん、りえ、けいやん)が何年か前に島を訪れた際に夜入ったという。彼女たちを連れていった中村君によると、暗闇が怖いのでライトを付けて服を脱いでいる彼女たちのお尻が白く光って見えたそうである。

 さらに南下する。栗生川の河口にはメヒルギのマングローブが自生している。泥に足を踏み入れながら、カメラを持って水に入った。しばらく歩きながら眺めているうち、メヒルギの根の下から小さな芽が顔を出しているのに気づいた。二四ミリレンズで近寄ってみる。たくさんいた小魚がさっと散った。ぼくはレンズを構えたまま、小魚が再び寄ってくるまでしゃがんで待つ。波がお尻をぬらしたが、じっとしていた。五分くらいお地蔵さんをしていたら、だんだん寄ってきた。「今だ」とシャッターを押した。

 二日目にテントを張った栗生の青少年旅行村の先端に塚先の浜がある。ここには珊瑚礁が発達している。天気は良いが風が強い。ぼくは姪っこの志歩ちゃんに貝がらを持って帰ることにした。志歩ちゃんは、貝が好きで、拾ってきては、歯ブラシでごしごしと磨いて大切にしまう。七個拾ったところで浜を後にする。水は冷たくないので、泳ごうと思ったが、風とうねりが強いのであきらめた。後日、彼女に貝をあげたら、「やくしまのかい、やくしまのかい」と言って喜んでいた。

 明日は四国へ向けて帰る日。島内一、風光明媚な場所にある、国民宿舎屋久島温泉ホテルに泊まる。北に本富岳を仰ぎ、眼下に太平洋を見下ろす高台にある。ここからの展望風呂は最高だ。宍喰の水床荘のとんかつ定食やさしみ定食は絶品であるが、あれと比べると料理は落ちる。しかし、食べるものがふんだんにある喜びをかみしめながら(山ではほとんど行動食だったので)ビールを飲み、海を眺めながらすべて平らげた。


 四国をめざして(七日目)

 宿舎を出て車の荷物を整理した。本富岳は青空のなかにそそり立っている。今日は、屋久島の普段の光景を見たいと思ったから、さまざまな脇道を訪ねてみた。
 島の南側、特に栗生から安房に至る海岸線の少し高いところを幹線道(島の周回道路)が走っている。この道から降りていく道がいくつも海に伸びている。道は、田畑、ヤシ、魚付林を縫うように海に届いている。その向こうに沖に浮かぶ船が見える。

 安房にある屋久杉自然館を訪れた。入館無料。近くには、世界遺産センターや屋久杉の館があり、地元農協の出店でおにぎり弁当(四百円)を買った。梅干し、トビウオのすり身、漬物を竹の皮で包んだものだ。タンカンアイス(屋久島の特産でみかんの一種)も食べてみる。山中の窮乏食の反動で少しのぜいたくがうれしい。
 やはり屋久杉がいい。地元の人に「どこで屋久杉製品を買ってますか」と聞いてみた。そうしたら、「安房の竹之内工芸」の名を真先に挙げた。それからもうひとつ、武田産業。どちらも安房の町にあったが、最初に見つけた武田産業に入った。そこで屋久杉の箸と盆を買った。盆は総無垢ではなく、水濡れによるソリを考慮して、側板は無垢、底板は合板。屋久杉の艶やかな赤みの複雑な杢目を見ていると、時の経つのを忘れる。店の値札でもっとも高いものは、切り株の座卓で三百万円也。

 ぼくはまだ屋久島をつかみかねていた。島の「売り物」とは向かい合ったけれど、「屋久島っていったい何だ」の問いに答えられなかった。
 最終日、車を北に向けて走らせていた。頭をからっぽにして、好きな音楽を聞いていた。身体が自然に動きそうなぐらい気持ちがいい。雲ひとつない今日は六月一日、アユの解禁日である。屋久島には天然のアユがいても、それを釣ろうとする人はほとんどいないと宿舎のおばさんから聞いた。この日はそれを確かめに宮之浦川を遡ってみたかったのだが、空と海に見とれているうちに時間がなくなった。空と海…これだ!と思った。

 屋久島にいるあいだ、ぼくは片時も四国を忘れたことはなかった。四国の海・山・川のすばらしさは、世界遺産の島に負けない。四国はあらゆる意味でバランスがとれている。そこに四国の可能性を見る。
 どこよりも早く多く雨が降り、どこよりも早く空に帰っていく屋久島、それが毎日繰り返される水の島。地球上の七割以上が水であるように、人間の身体も七割以上が水。生物の身体は地球の縮図。
 水の循環が早いことは、新陳代謝がさかんであることを示す。普通の杉もこの島に来れば、屋久杉になる(普通の人間もこの島に来れば、屋久人になる?)。高山植物もこの島独特の進化を示している。天敵のいないヤクジカ、食べ物の豊富な森に住むヤクザル、そして人間が同じ数だけ住んでいる。微妙なバランスの上に成り立っているこの島の生態系は、独特の環境のなかで悠久の時間をかけて育まれてきた。それは生命の実験であり、進化の学習を刻んだプリントである。屋久島は遺伝子の宝庫であり、この島が音を立てて地球から消えるとき、いくつかの遺伝子が宇宙から永遠になくなることを意味する。

 屋久島=世界遺産が問いかけるもの---それは、どこにでもあるものが大切だということ。石ころひとつ、小さな生命ひとつに至るまで、宇宙一五〇億年、地球四六億年の悠久の時の流れのなかでつないできたいのちのリレーであり、すべてがかけがえのない存在であることを、数千年の森が教えてくれた。それは、ひとつのいのちと一個の遺伝子の価値の重さ。ただし、水の島、屋久島も、光の国、四国も、それを見ようとする人にだけ、楽園の扉を開ける。


 番外編〜鹿児島のラーメン

 船が鹿児島港に着いた夕方、鹿児島の街を見てみようと思った。中心街にはその都市の顔がある。中小企業診断士として、商業のなりわいが気になる。天文館にぎわい通りの立体駐車場に車を入れ、「こむらさき」というラーメン屋に入った。博多ラーメンとはまた違う薩摩ラーメンの妙味を味わってみたいと思ったのだ。
 食券を買ってカウンターに座ると、目の前でおばさんたちが手際よく作っていく。つくる方にとってはごまかしのきかない臨場感が漂う。作業を見ていると飽きないし、目で確かめる安心感がある。この臨場感と安心感が、この店の繁盛の要因となっている。
 麺はさらっとして太い。そして白っぽい。黒豚と椎茸のだしは、博多ラーメンのように白く濁らず、黄土色をしている。好みに応じてにんにくのすりおろしを入れる。具はキャベツをゆでたもの、たまねぎの細切れ、しいたけ、そして黒豚のチャーシューがたっぷりと盛られている。とん骨のコクと塩ラーメンのあっさりした風味を兼ね備えており、一口ごとにやわらかな豊穣のときが訪れる。なんとうまいんだろう。お碗を持ち上げて口へと運ぶ回数が増えるたび、別れのときが近づく。あと何回すすることができるのだろうか。栄養たっぷりでありながら、物足りなさを感じるぐらい胃に吸い込まれていった。九百円也を払って出る。

 エネルギーの充填が完了すれば、徳島へ向けての長旅がはじまる。いつもの儀式をする。「ようがんばったな。気をつけて安全運転で帰ろな。ありがとう」とハンドルをなでたり、たたいたりしながら車に話しかける。
 財布を覗くとフェリー代を除いて四千円。ガソリンは1/5しか残っていないのでどこかで給油しなければならない。鹿児島〜宮崎間はガソリンが安い。だいたい九四円ぐらいである。三千円分入れた。目盛りは半分まで回復。月曜日の朝、松山を通過する頃にはキャッシュカードが使えるだろう、と思っていると、そのまま徳島まで帰ってしまった。目盛りはまだ余裕があった。
(今度は八重山諸島が呼んでいるようだ。夏休み、だれか一緒に行ってみますか?)

参考文献「屋久杉の里」/南日本新聞社屋久島取材班 (著) ,岩波書店(1990年)

*この手記は、一九九七年五月二六日〜六月二日にかけて屋久島を訪れた際に書いたものです。留守を預かっていただいた多くの方に感謝を申し上げます。

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