吉野川中流〜日本最大の竹林
四国三郎の恵み、西から東へ 数十キロメートルにおよぶ険しい渓谷、大歩危・小歩危は激しい瀬、深い淵、露出した巨岩を透明な水が洗う日本でもまれにみる急流渓谷である。かつては旅の難所だったが、国道が渓谷を走る今では、高松と高知を結ぶ四国の背骨となっている。 大歩危から支流祖谷川を遡ると、平家の落人伝説で知られる秘境祖谷の集落に出る。祖谷の人たちには背筋を正すような凛と張り詰めた気配が漂う。男たちは土木工事に出かけ、女たちはソバやイモを家のまわりで育てる。お正月の雑煮は餅ではなく、イモである。 (断崖200メートルの祖谷渓谷) 祖谷の東にある霊峰剣山から、三嶺、さらにその西の天狗塚にかけては、風わたる笹原の縦走路となる。三嶺へはその南面の高知県上韮生川源流のフスベヨリ谷から沢を詰めていく。そこには鬱蒼とした深い森がある。 見えないもの 見えるもの 人には見えぬもの 鳥には見えるもの 精霊は今もここに そこは深き泉水 山懐に抱かれて 静寂夢魂 生命無痕 苔むし 屍さらす処 流れて大岩 ──そしてカミ宿る樹 魑魅魍魎は汝自身かと問いかける 風のざわめきやむことをしらず 沢沿いには見たこともないような植物が密生している。樹木の一本一本に視線を移しながら足音を消して進む。ほのかに甘い沢の水、その冷たさを口に含みつつ胸突き八丁を匍匐前進すると、通称アオザレと呼ばれるがれ場が見えてくる。アオザレを左に眺めながら尾根に取りつくと、三嶺の頂上は近い。 森のルールは森が教えてくれる。それを感じられる人だけが行けばいい。 池田町を過ぎると、吉野川はくるりと向きを変えて西から東へ流れる。太陽が川から登り、川に沈んでいく。 かんどり船の人 影絵となり 竹林はざわめきを止める ヒグラシの声 遠く響き 水紋があちら こちらで 泡立つ 物音ひとつしない 川の時間 ひたひたと 地球のしずく色に 染まる みんな染まる (ジャングルのような竹林が寄り添う) 池田町から善入寺島にかけては、長さ五十キロ、場所によっては幾重にも川を囲みながら、二七〇ヘクタールにも及ぶ竹林の帯が続いている。 竹林は、地中にしっかりと根を張って土手を守るとともに、その枝で氾濫する水の勢いをくい止め、田畑に肥沃な表土をもたらす。それは水害防備林と呼ばれ、洪水から身を守るため、流域の人々が数百年かかって築き上げてきた。 マダケを主とする吉野川の竹林は、さまざまに利用されてきた。建築材料、竹細工の材料、食べ物の包み、ときには子どもの釣り竿にもなった。 笹の葉を洗って火でいぶし、お湯を注ぐと香ばしいさみどり色の茶になる。澄んだ川の淵を連想させる色である。竹の筒にご飯を入れて炊いてもいい。 竹の子の煮つけはおいしい。鰹節と醤油だしにほんのりと甘さが漂い、コキコキとかぶりつく。うまい。てんぷらにしてもうまい。 素材としての竹は軽い。裂けやすいがしなりがあり、編み上げると柔軟性があり、美しい造形を保ちながら強度は高いものに仕上がる。入手しやすく容易に加工できる竹は、大昔から細工にうってつけの素材だった。 竹は六十年ないし百二十年に一度開花して枯れるという。しかし、十数年で元の旺盛な竹やぶが蘇る。伸び盛りの若竹は1日に1メートルを越えて生育することもあるという。竹の伐りだしは、樹勢が弱まる秋から冬にかけて行われる。 真っ直ぐに伸びながらも、節があり、しなやかで生命力に溢れている。そんな竹に古人は神秘的な霊力を感じ取り、竹取物語などの民話も数多く生まれた。各地に、竹の神輿、竹を割る祭り、竹に火を放つ祭りなどがある。 (清冽な水で遊ぶ。穴吹川にて) 中国では、女子が針仕事がうまくなりますようにと、やぐらを庭に立て、お供え物をして牽牛と織女の星にお祈りをした。 日本では、棚に機を設けて神の降臨を待ち、神とともに一夜を過ごす聖なる乙女の信仰があった。中国の星祭りである乞巧奠(きこうでん)と、日本古来の棚機女(たなばたつめ)の信仰が習合して七夕の風習になったと伝えられる。六日の夜には、五色の短冊に歌や字を書いて竹に結び、手芸や習い事の上達を祈り、七日には川に流して七夕送りをした。 神が降臨される聖域として竹で依り代を作るのは神事である。最近では竹炭にして水の浄化に役立てるなど、その機能が注目されている。 密生した竹林に分け入り、踏み跡をたどると、延命地蔵と彫られたお地蔵様があった。水難防止への祈りが刻まれているのだろうか。 時間とともに老朽化する鉄やコンクリートとは違い、竹林は適切に手入れをしていくと、何百年も世代交代しながら再生していく。それは、いのちが循環する生きた堤防である。 日本最大規模である吉野川中流域の竹林の回廊は、洪水と付き合ってきた先人の知恵である。世界遺産に指定して保全することはできないだろうか。 (三加茂町。雄大な流れ) 水辺は、植物の宝庫である。水に近づくにつれて、河畔林、湿地の植生、抽水植物、浮葉植物の順に分布し、太陽の光が届きにくい水面下には沈水植物が生育する。陸と水が変化しながら接する水辺、海水と真水が接する水辺には、多種多様の生物が棲んでいる。 生物の絶滅の速度を昔と比べてみると、一万年前は、百年に一種類くらいの生物が絶滅していたにすぎない。今では、一年に四万種類の生物がこの地上から姿を消しているという。生物は互いに影響しあい、つながりあって生きている。絶滅した種は二度と現れることはない。 死ぬために生まれてきた遺伝子を知っていますか 名前はアポトーシス死の遺伝子 自ら計画して死ぬことで生物のカタチをつくる それを持つ生物は繁栄できた 遺伝子も利他の心を持っていたこと 知っていましたか やがて訪れる死 その設計図も遺伝子が書いた 固体数が増えすぎると種は滅びる だから自然に死ねるのはいいこと 生きることに一生懸命になれる 生物の体を遺伝子の宿とすると、生物種が失われることは、遺伝子の多様性が失われることを意味する。進化論によれば、弱い固体を持つ遺伝子は淘汰されるはずだが、どうもそうではないらしい。生物が互いに関連しあって生きているように、遺伝子もネットワークとして生物間を越えて連携している可能性があるらしいのだ。 農業では、数年で品種改良が必要となる。年数が経つと元に戻るからである。品種改良に際しては、その土地に生えている雑草を掛け合わせる。食料危機を救うのは雑草だ、という人もいる。 (カヌー、竹林、鮎釣り師。穴吹町) 人類にとってやっかいなインフルエンザやエイズ、がんなどの難病に効く薬効成分が、植物や微生物中に存在することもわかってきた。同じ種でも地域が変われば遺伝子は異なる。とりわけ生物種の宝庫である熱帯雨林は、かけがえのない蔵書(遺伝子)が無限に詰まった地球最大の博物館ともいわれる。生物の多様性、遺伝子の多様性こそが健全な地球の姿であると気づいた時、地球の生態系は危機的な状況になっていた。 アメリカでは、生態系に影響を与える公共事業の必然性について国民から非難の声が上がった。そのため、行政に都合の悪いデータもすべて公開し、計画の是非を住民の判断に委ね、すべての情報(電話の打合せやメモまでも)を白日の下にさらして公開するという。南フロリダのオーメン博士から夕食を共にしながら聞いた話である。そして、事業の計画から実施に至るすべての段階で、住民を交えて、行政や専門家と論議を繰り返す。博士は、明治天皇の言葉を引用して「みんなで徹底して議論しよう。時間はかかっても、いい結果になる」とおだやかに語る。 フロリダでは直線化した水路を、元の蛇行する自然河川に戻した。この教訓から得たことは、最初に道を誤ると、巨額の費用を投下しても復元できる可能性は低い、ということだった。 (子どもが大河で泳ぐ姿はほかでは見られない。山川町) アメリカ政府は「ダムの時代は終わった」と宣言した。建設を行わないばかりか、ダムを撤去して元の自然に戻すことも行われている。 そのきっかけとなったのが、1993年にミシシッピ川で起こった氾濫である。数カ月間水没した地域もあり、500年に一度の大洪水といわれた。その被害を連邦政府が綿密に調査検討した結果、川を人為的にコントロールするだけでは洪水はもはや防げないと結論した。際限のないダム建設やコンクリート工事が自然を破壊し尽くし、そのツケが災害と財政難という形で人間にはねかえってきたのだ。 そこで、自然と敵対するこれまでのやり方を改め、水を逃がしてくれる湿地や遊水地を見直すなど自然条件を生かしながら、被害に遇いやすい地域には保険制度で補償するなど、地域毎の危機管理(水管理のソフト面)に目を転じた。そんな総合的な水とのつきあいが大切と教えてくれた洪水だった。 日本の国家予算は事実上破たんしており、出生率の低下、高齢化社会の到来からみて歳入はさらに減少する。そのうえ、多くのダムや堰などのコンクリート構造物が21世紀中に老朽化するという。そうなると、だれが建て替えるのか。 持続的な社会であるためには、特定の施設に依存せず、流域全体で洪水に対処する必要がある。自然をねじ伏せる技術から、自然に寄り添う技術へと転換しなければならない。 河川法はそのような方向性を取り入れて改正された。川は決して特定の団体や権利者のものではない。川を地域の人々の手に取り戻し、川と密接にかかわることが、豊かな地域づくりのための第一歩ではないか。 (野田知佑さんと穴吹川。川は山がいのち) 水と光の国、四国は可能性を秘めている。原石に少し角度を変えて光を当ててやれば宝石となりうる。 四国のことは四国で決めよう。心豊かに暮らす人が住む地域を創ろう。四国に限らず、日本の各地ですぐれた人材が野に咲いているに違いない。その人たちの夢が生かされる仕組み、生活者の声を反映した政治や行政──「地域主権」をめざそう。 こんなことを言う人もいる。「四国という字には、八と玉が囲われている。すなわち、四国には神と王が隠されている」。 ある人は「四つの国、八(八十八ケ所)を回ると、玉(美しいもの)に出会える」。 別の人は「四つの国を合わせてしあわせ」と読む。こうした言葉遊びもおもしろい。 四国はお遍路さんの巡礼する土地である。過去を忘れ、死に場所を求めてお大師さんと同行二人の旅に出る人の胸に去来するのは、そんなロマンではないにしても、八十八ケ所を四十日間かけて巡る旅は自分を見つめ直す時間に違いない。 (向こうが見えないほど広大な河原。山川町) 水に潜る橋と水に浮く家 川島町の学島の潜水橋を渡ると、善入寺島という広大な遊水地がある。ここは大正年間まで三千人が住んでいた川中島である(河口から約30キロ)。道路はこの辺りで川から離れ、河畔林を伴いながらアラスカのような雄大な風景が広がる。はるかな向こう岸、広い河原、水上をわたる鳥の声。竹林の裾野には石が積まれ、魚の住処となる。時折カヌーに驚いた魚が反転して川底が濁る。70センチを越えるナマズもいる。徳島市内から半時間のところである。 吉野川の風物詩のひとつに潜水橋がある。潜水橋とは、大水の時に水に潜る橋。こうすることで洪水の妨げとならず、橋も流されない。川の両岸を短く結ぶ潜水橋は、歩行者や自転車にとって便利な橋である。 菜の花に彩られる春の高瀬潜水橋、夏の竹林に映る角の浦潜水橋は眺めて飽きない。秋の脇潜水橋の夕暮れ。民家と段々畠を対岸に控え、南国四国の情緒が色濃い穴吹川の口山潜水橋。学島の潜水橋はもちろんだが、善入寺島を横切り、北岸の分派流にかかる小さな潜水橋も「こぶな釣りしかの川」の趣がある。 吉野川の度重なる氾濫は、決して害だけをもたらしたわけではない。洪水のお陰で肥沃な土が運ばれ、それが農作物にいい結果をもたらすことがあった。 かつての阿波藩は、名産の藍染の原料となる藍の作付けを奨励していた。石井町にはその名残りの藍屋敷田中家がある。 (かつての藍屋敷 田中家。石井町) 洪水常習地帯に建てられたこの家の石垣は、高さ2メートルにも及ぶ。川に面した方角には屋敷を守るために木が植えられ、納屋の軒下には小舟が吊るされている。屋根に届くような大水の時には、母屋の茅葺き屋根を切り離して船として使うという。 田中家は究極の洪水対策を備え、水利と肥沃な土を求めて川から離れなかった。建築されて数百年、実際にノアの方舟のような大洪水はなかったが、数百年起こらなかった希有の自然現象に対して、畏敬の念とたくましい想像力を持って暮らした人々の心が伝わってくる。 参考サイト→ 河川審議会「「川における伝統技術の活用はいかにあるべきか」 Copyright(c)1999-2000 Yoshinobu Hirai, All Rights Reserved |