四万十川
森に包まれた川 川沿いの曲がりくねった道を遡ること約一時間、西土佐村江川崎の集落で土地が開けた。ここから四万十川を下ることにした。ポリネシアのアウトリガーカヌーとは違う、折り畳み式のファルトボートを使う。布一枚を隔てたお尻の下に水を感じる。ここからの四万十川はひなびた土地を蛇行しながら海をめざす。水は山裾を洗い、静けさは心を洗い、川に身を預ければ考えごとは頭から消えている。 水がぐるぐるまわる、船もぐるぐるまわる。櫓を漕ぐ手を休める、静まりかえる。陸から見えない水際に洞窟がある。近寄ってみる。静かだ。 八色の鳥 さえずる河畔 水底を走る鯉 川面を舞う鯉 五月の若葉 沈下橋越しに涼しげ 支流の目黒川は水が澄んでいる。本流との合流点では二色の水が境界をつくる。目黒川をひとかき潜ってみる。ぶなの森、滑床渓谷からの甘い水が葉っぱを運んでくる。水の法則に逆らいながらかき進むと過去を遡るような気分。ゴリが水底をピョコピョコ移動していく。 岩間の沈下橋をくぐり抜けて休憩。河原で焼きおにぎりをほうばる。ミズスマシのように川に映る沈下橋の下をピンクや黄色のカヌーが通過していく。沈下橋の上からカヌーで飛び込む連中もいて歓声がわき起こる。 曲がり角にさしかかって振り返ると向こうの山が霞んでいた。前方には四万十川旅の白眉、口屋内の沈下橋と清冽な支流黒尊川の合流点が見えてきた。もうすぐ海、それなのに、鏡のような水面が悠然と移動していく。 姿を変えた日本の国土 今から数十年前、昭和30年代に拡大造林政策で植林されたスギ・ヒノキは、昭和40年代になって安価な輸入材の影響で競争力を失いつつあった。天然林とは違って保水力に乏しい人工林は、治山治水事業を必要とし、高度経済成長がそれを押した。林業が衰退して、ダムや堰堤、林道などの土木工事が基幹産業となった山村は少なくない。 それによって生活はある程度近代化されたが、都市部との収入や生活水準の格差から人口は流出を続け、故郷の景観は著しく姿を変えていった。こうして何世紀も山とともにあった暮らしは崩壊した。 姿を変える以前の山村の暮らしはどうであったか。おそらくは、森の手入れをしながら薪やきのこなどを採取し、少しずつ周囲の田畑を耕し、四季折々に釣りや狩猟を織りまぜながらの自給的な生活であった。自然を利用しても、搾取したり破壊することはなく、里山がもたらす森の幸を根絶やしにしないよう何世代にもわたって営まれてきた暮らしであり、山の頂や森は天からの霊力を受け、神が森や水を守っていると感じていた森の文化であった。映画「もののけ姫」の空前のヒットは、アジアモンスーンの照葉樹林に育まれた日本人の深層意識と共鳴したからではないか。 高度経済成長が終わる頃、ほとんどの日本の川はコンクリートで固められ、清らかな水は失われ、身近にいたトンボやメダカはいなくなり、川で遊ぶ子どもの姿が消えた。一方、四万十川は依然として山裾を洗いながら悠然と流れ、満々と水を湛えた川面に映る潜水橋からは子どもが水しぶきをあげていた。河川勾配がゆるやかなこの川はダムの適地も少なく、開発から取り残された典型的な過疎地域で、ここだけが時間が止まっていた。中流から下流にかけての専業の川漁師の存在、点在する沈下橋、森に包まれた人々の暮らし・・・日本の川の郷愁を心ゆくまで感じさせてくれる。 こうして、345 本の支流と山からの湧き水を集めて山間部を穿入蛇行しながらゆったりと流れる大河の風景が、「日本最後の清流」として注目を集めるようになった。shimantoという不思議な言葉の響きも日本人の郷愁を誘った。 人々は幼少時代の記憶を忘れることは決してない。年月とともに思い出は美化され、心の中に生きつづける。なつかしい故郷の風景を求める人や、ストレス社会に生きる現代人にとって静かな水辺は癒しの場となる。四万十川流域には理想郷を求めて人々が都会から集まるようになり、定住する人も現れた。 観光客のためではなく、村のため 人口の減少が高知県内でもっとも少ない村は、天然林(といっても人の手で管理された二次林や薪炭林)が多く残された四万十川中流域の十和村であることを高知大学の大野晃教授(地域社会学)は指摘している。広葉樹の山は治水利水に効果があるだけでなく、山そのものの生産力のため、経済活動を循環させることが可能である。そのため、雑木林型山村経済を持つ十和村は、人口の高齢化率も低い。十和村をはじめ四万十川流域では、流域の人たちによる物産品づくりが行われており、そうした努力が大きな実を結ぶ日も遠くないと思われる。 十和村は、四万十川中流域の山間部に位置する。この村では「もやが川沿いの山にかかれば雨になる」「朝の夕焼け、田の水放せ。秋の夕焼き、鎌を研げ」などの言い伝えがある。また「アユが採れると、商店に客が増える」という。高知大学の大野晃氏によれば、里山(雑木林)が豊かに残されている十和村は、人口の減少率が低いという。これは何を意味するのか。 十和村の青年畦地さんの話である。 ---四万十川で泳いでみたが、ちょっと潜ったら底が見えなかった。昔は沈下橋の上から5メートルぐらいまですっきり見えていた。親父の代は「山から下の魚が見えよった」という。「ほんまかいな、そらちょっと大げさかな」と思うたけれども、それぐらい川の魚もおった。 テレビでこだわりの逸品として、村の鍛冶屋さんがつくった皮剥き包丁が紹介された時のこと。こうぞ、みつまたの木の皮を剥ぐための小型包丁だが、果物ナイフに使えるのではと考えた。年間三十丁しか作られてなかったが、「テレビにこれ決まったきい、おんちゃ、ちょっと作ってや」というと、おじさんは「そら分かったと、ほな五十丁ば作っちょうがや」。 そうして全国に放映されると、六千丁の注文が来た。これには驚いた。村ではありふれた物、何気ない暮らしが都会の人には珍しいんだということがわかった。全国の注目を集めると、地元の人がかかわってもらえる場面が出てくる。そして、一緒にやれる人たちがいっぱい増えていくと、双方向のコミュニケーションが生まれる──。 畦地さんは、おもしろい村づくりこそが鍵だと言う。楽しみながら百姓をやってうんと稼ぐ。そうすれば、土建業で川をコンクリートで固める必要もなくなる。大切なのは、一人ひとりの心意気なのだ。口屋内沈下橋の風情とともに、十和村広瀬の奥深いたたずまいは好きだ。 四万十川最大の支流梼原川(こちらを本流にしてもおかしくない)がある梼原町では、1995年に「全国棚田サミット」が開かれた。梼原町には、棚田のオーナー制度がある。これは、都市の人に年会費(四万十円!)を払ってもらって維持管理に当てながら、時々は棚田を耕作してもらおうというもの。青空の下での作業はまちの人にとってたまらない魅力である。しかも一年の終わりには、収穫という喜びが待っている。 欧米では、農業が環境保全に果たす役割を評価し、その保全を農家に義務づけるとともに条件の不利な耕作地に所得補償することを、国民の合意として制度化している。日本は食料自給率が異常に低い。しかもそれをさらに下げるために税金が使われている。ところが、休耕田に水を張っておくだけで生物は生息できるし、農地への復元も可能となる。そうしたことを奨励するような制度はできないだろうか。 所得補償の算定には原価管理が前提となる。また生活者が農業や生産物に何を求めているか、それにいかに応えるかが鍵となる。環境保全型農業とは、先人の知恵を今の手法で蘇生させる持続的農業であり、そのことがまちとむらの暮らしをつないでいく。 梼原川には津賀ダムがある。十年ぐらい前までは、このダムから本流との合流点までは一滴の水も流れない河原砂漠だった。水利権の更新時に流域の人々はダムの撤去を求めたが、電力会社は却下した。その代わり、下流に水を少し流すこと(河川維持流量)を約束した。津賀ダムと本流の家路川ダムがなくなれば、往時の四万十川が蘇るかもしれない。 水路がコンクリートで固められて汚水が川にそのまま流れ込む今、生活排水対策は欠かせない。四万十川中流では微生物を利用した浄化槽を積極的に推進し、本流なみに排水を浄化しようとしている。熱心な人が一人でも自治体にいれば、少しずつでも変わっていく。 都会からここへ定住して川漁師となり、漁の合間にカヌー教室を開く人もいれば、トンボ王国を作りだした地元の人もいる。このような流域の人々の試行錯誤の結果、今日の四万十川がある。 高知県知事は、肝入りで政策研究所を発足させ、四万十川の景観の経済的価値を算出させた。その結果、自然のままの四万十川の景観の価値ははかりしれないとし、県の川沿いの道路拡張計画を中止させた。広い道路はコンクリート護岸が川に迫り出し、淵が消えていく。そうなるとざら瀬が多くなり、生息環境が単純になって魚は棲めない。 四万十川では、行政と住民が力を合わせながら、流域のさまざまな人々の試みが実を結ぶ日も遠くない。 → 四万十川写真紀行へ
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