四国の川と生きる | |
1993年に徳島のふつうの市民が始めた活動が6年後に全国に感動を与えた…。吉野川第十堰をめぐる住民投票の物語。 | |
住民投票への長い道程(この物語は事実に基づいて創作されたフィクションです) 吉野川シンポが創立された1993年から今日までの流れを、ときどき感じたことを付け加えながらを追ってみた。 現在の第十堰を撤去し、巨大な可動堰ができることを野媛さんたち釣り好きのグループが知ったのが1993年夏のこと。これではいけない、どうしよう、とりあえずシンポジウムを開いて、人々に知ってもらおうと思った。 最初のキックオフは、9月に開いたカヌーイストの野田知佑さんを招いての川遊びと翌10月の講演会。世界中の川を旅している野田さんの話を聞きながら、その一方で可動堰計画の実態を建設省に説明してもらおうという趣旨であった。 建設省は、可動堰(河口堰)建設とはいわず、第十堰改築事業と称していた(これは愚衆を欺く欺瞞手口のひとつ)。そのため「新しい堰に作り替えてくれるのがどこが悪い?」といぶかしがる人も少なくなかった。建設省はシンポには出てこなかった。 吉野川シンポジウム実行委員会は、このイベントを行うために結成された団体だったが、その後、今日の事態にまで長引くとは会のメンバーにとって予想できないことだった。 1993年の暮れにぼく(岩井)は友人とシンポの例会に参加。自他共に認める川好き、川とともに生きているような人間であったぼくは、自然に運動にのめり込むようになっていった。この会の居心地がよかったのだ。 1993年〜1994年は、「市民に計画の実態を知ってもらう」ための活動と位置づけられる。 ・五十嵐建設大臣へ陳情 ・シンポジウム「長良川そして吉野川」/高見裕一、小西和人。約200人参加 ・広中環境庁長官にアセスメント実施を陳情 ・カヌーイベント「デイ&ナイト」/貞光〜穴吹の川下りを野田さんと。 ・フォーラム「吉野川発・川と人のつきあい今はじまる」/筑紫哲也、本多勝一、大熊孝、近藤正臣を招いて開催。約800人参加。 ・河口堰に関する市民の認識調査のアンケート実施。ほとんどの市民が知らないことが明らかになった。 ・ビーチクリーンアップ&第十堰でお月見実施 ・建設省へ公開質問状提出 1995年〜1996年は、建設省を同じテーブルに着かせて議論した時期。議論のなかから建設省の矛盾点を明らかにし、次々と非公開のデータを引き出していった。天下の建設省が市民グループのフォーラムに出席するなどありえない時代だったので画期的と表され、マスコミからは「徳島方式」と呼ばれた。 ・親水イベント「第十堰 たこ上げてたこ焼き」 ・公開質問に対して建設省データ示さず(数ヶ月遅れて出してきた)。 ・BE=PALミーティング「吉野川で野田知佑と遊ぼう」 ・日弁連、第十堰を視察 ・建設省この頃から、洪水の恐怖を煽るパンフレット「藍より青き吉野川」を大量配布。 ・長良川河口堰強行運用開始、すぐにシジミなどが全滅。 ・第十堰審議委員会始める。第1回が非公開だっため非難の声が高まり、第4回目からは公開となった。 ・第十堰自然観察会「オーパ! ハゼ釣り大会&芋煮会」 ・フォーラム「河口堰の水を考える」/CW ニコルほか。建設省が市民団体のフォーラムに参加した最初の機会となるが、建設省は可動堰による環境悪化を認めず議論は噛み合わない。 ・フォーラム「第十堰と治水を考える」/吉村伸一(河川技術者)。建設省と治水論で議論するもやはり噛み合わず。 ・水郷水都全国会議・徳島大会を開催(1996年8月2日〜4日) 野媛氏、下村氏に岩井の3人が事務局となって寝食を忘れて準備した10ヶ月。第十堰と細川内ダムを抱える徳島での開催は全国から注目を集めていた。三木睦子さんを大会長に迎え、全国から千人の専門家、一般市民、行政が集まった。すべての分科会に建設省を巻き込んだのは画期的であった。 徳島新聞は、事前の好意的な前打ち(連載企画)に始まり、当日は全紙2面を割いての異例の報道。まさに徳島百年の歴史に残る大会となった。これで倒れたら本望と思ってやってきたぼくであったが、大会当日のオープニングを見ていたら熱い想いがこみ上げてきた。 特別ゲストに梅原猛、南フロリダのオーメン博士(通訳付)ほか全国から著名学者、実績を持つ人々が議論をした。吉野川、那賀川、勝浦川、海部川へのエクスカーションも組み込み、何もかも破天荒な試みが破たんしなかったのは多くの人々の協力のお陰。これ以降、県内各地の活動している人たちとの連帯の輪が生まれていく。また、この時知り合った全国の人々との交流は絶えることなく続いている。大会の余韻が一段落した秋から冬にかけての3ヶ月を費やしてひとりで編集したのが、大会報告書「川と日本」だった。 こうした気の遠くなるような地道な努力で、うさんくさい可動堰計画の実態が少しずつ浸透しはじめた。そのためかマスコミ各社の世論調査では、常に可動堰計画反対の声が大きかった。ただし運動を「反対運動」と位置づけず「疑問を持つ会」のスタンスを崩さなかったので、普通の主婦や学生などが気軽に参加できた。特定の団体の組織力に頼らない運動は、ひとつの理念となってそれ以降も貫かれていく。2〜3ヶ月に一度は素人集団が手に余るようなイベントを行っていたわけで、関係者の生活破たんは当然かも? マスコミへの働きかけはまめに行った。徳島新聞には一月に2回の投書を出した。5分で書く500文字投稿の掲載率が9割を越えていた。地元紙のみならず、朝日、毎日、読売の全国紙面にも投稿を行い、それぞれ一度ずつ採用された。人々に知らせたいという情熱だけでペンを持った数年だった。 しかし知事が1997年9月に再選されてからは、ぼくの投稿はなぜか陽の目を見ることはなくなった。 ・第十堰ピアノコンサート開催 ・「未来の川のほとりにて」出版(山と渓谷社)。 シンポ関係者による手づくりの本であったが、美しい体裁と見応えのある写真満載でプロ顔負けの仕上がり。県内はもちろん県外でもベストセラーとなり、乏しいシンポの財源に印税をもたらした。 吉野川に駆けつけた著名人は、椎名誠と彼が率いるあやしい探検隊、夢枕漠をはじめ数えきれず。訪れたジャーナリストも、多田実、横田、今井などそれぞれに真実に迫る記事を書いてくれた。また水郷水都徳島大会では、市民から寄せられた浄財は1千万円を越えた。その後、第十堰住民投票の会(最終1千6百万円)、吉野川第十堰の未来をつくるみんなの会に至るまで吉野川の金庫番は岩井が受け持つこととなった。 1997年〜1998年は、第十堰審議委員会の暴走、体制側からの締め付け強化、その結果、住民投票を模索するようになった段階。 1998年、建設省は、長良川河口堰強行に対する厳しい世論を受け、ダム事業等の透明性を担保するため審議委員会を設置した。それが全国に11箇所設置されたダム審議委員会である。徳島では、第十堰審議委と細川内ダム審議委(村長の拒否により開催されず)の2つが設置されたが、知事が任命した委員はほとんどが可動堰推進論者で、人選のかたよりから結果は見えていた。 吉野川シンポは建設省のデータの不備や疑問点を第十堰審議委員会に突きつけた。洪水は計画された安全ラインを越えないことが判明したからだ。これは可動堰計画の根幹に関わる重要問題である。世論を背景に審議委は無視することができなくなり、本会議に吉野川シンポのメンバーを3人招へいして意見を聴くことになった。民間人を審議委に呼ぶのは前例のないことである。このときの3人は、野媛、神亀(河川技術者)、岩井。 しかし、第十堰審議委は審議不十分のまま、1999年8月、可動堰計画を容認する答申を提出した。これまで国が決めた大規模公共事業が覆ったことはない。市民の間に諦めムードが漂う。いよいよ住民意思がどこにあるのかを示す伝家の宝刀を抜くときが来た。こうして住民投票に向けての長いカウントダウンが始まったのである。 連日深夜に及ぶ打ち合わせで、建設省に対する技術的な矛盾点を明らかにし、いかにそれを市民にわかってもらうかを議論した。これには、河川技術者による匿名の参加が大きかった。さらにマンガや広報では、地元漫画家まるむしネコ氏、若者に人気のタウン誌の支援(広報)が大きかった。 参議院議員竹村泰子氏が提出した質問趣意書に対する答弁(いうまでもなく国の公式見解である)では、計画の最大の論点とされた「150年に1度の洪水水位が安全ラインを越える」根拠については「絶対的なものでない」と答えるなど矛盾だらけだった。ならば可動堰は必要ないのである。 1898年9月に第十堰住民投票の会が産声を上げ、7万人署名を目標に活動を開始した。ほんとうに7万人も署名が集まるのだろうか。集まった誰の胸にも不安がよぎる。しかし活動を進めていくうちに、これまで沈黙を守ってきた市民が続々とはせ参じ、住民投票の会の事務所は異様な雰囲気に包まれ始めた。がんに犯され余命幾ばくの老人が訴える、仕事を投げ出して自営業者が走る、主婦が慣れない戸別訪問をする、漁師や建設業の人たちが参加する(締め付けを考えると勇気がいることだろう)、若者が街頭で呼びかける、高校生までもが自主的に動くなど、一人ひとりが主人公となって運動を繰り広げた(その模様は後に四国放送が感動的なドキュメンタリーとしてまとめた)。 その一方でぼくは、自分の活動が限界にさしかかっていると感じ始めていた。吉野川と複数のNGOの運営、公職、仕事---まるで徳島をひとりで背負っているような気さえした。しかもそれぞれの相手は、ぼくのほかの活動を知らないので求められる要求はエスカレートするばかり。手伝ってくれる人もなし、相談できる相手もなし---誰にも言えない孤独のなかで、寂しさと高ぶる情熱を永遠に閉じこめようと魂を込めて文字を書いた。それが原稿用紙500枚を積み上げた小説である。 徳島市民が熱意を持って立ち上がってくれた。全力で走り続けた数年間−−−しばらく休息を取りたいと思った。自分の人生を考えなければならないと思っていた。 1998年12月2日。最終日の深夜が終わった。事務所に残った誰の目にも熱いモノがこみ上げていた。みんな無口で天を仰いでいた。半月後、選管による有効署名総数が確定した。地方自治法に則った署名は105,535人---実に徳島市の有権者の過半数に達していた。 1999年2月8日。市議会は10万人の重みの条例案を否決。悔しさのなかから次の市議選に独自候補を市民のなかから擁立することにしたが、人選は難航し紆余曲折を経て5人の候補者を立てた。 1999年4月。素人による不慣れな選挙戦が始まった。選挙のプロたちを相手に苦戦の末、3人が当選。リベラルな市議2人を加えて、代表質問ができる5人の会派「市民ネットワーク」を結成。政治に無関心だった市民がはじめて議会に自分たちの代表を送り込んだ。夢は必ず実現させる---徳島市民は誰よりも真っ先にそれを実践した。 1999年6月。公明党に煮え湯を飲まされながら、50%条項の付いた住民投票条例が制定された。喜びもつかの間、来年1月の投票実施に向けて、豊富な資金とフルタイムの専門家で武装した建設省、県を相手に情報戦が始まった。それは終わりのない消耗戦への突入であった。みんな疲れ果てていた。内部からさまざまな批判や愚痴が絶えず噴出し、脱落者が増えていった。 1999年も押し迫った年の暮れ。黄色いプラカードを持った人たちに雪が降り積もる。けれど道行く人の視線はなぜか温かい。 与党の政治家は口々に住民投票を批判した。裏を返せば住民投票が怖いのである。かといって、それが成功しようと失敗しようと、これですべて決着するとはぼくには思えなかった。全国がその結果を注目している2000年1月23日。友人たちは、県の内外を問わずその日一歩も外出しなかったという。 その日ぼくは、プラカードを持って街頭に立っていた。雨にみぞれが混じる天候だった。車を運転する人に手を振っていると、茶髪の若者たちがピースサインを投げかけてきた。これはいけると思った。政治や社会に無関心な連中---そんなレッテルを貼るまいと思った。結果がどうであれ、自分たちの手でこの国を変えていける自信、胸躍らせながら活動する実感を知った徳島の人は決して選択を誤るまいと思った。 夕方近くになって投票率は50%近くに達していた。しかもこれに不在者投票が5%程度加算される。18時を回った辺りで、誰からともなく投票率が50%を越えたとの知らせが光の速さで伝わっていく。かちどき橋の上は歓喜に包まれた。事務所に戻った頃、正式発表を聞いた。そしてみんなが抱き合って歓喜の涙を流しているとき、人知れずついたての影で眠っている人がいた。野媛さんであった。7年の活動が結実したこの瞬間に彼は眠りに落ちた。どんな思いでこの瞬間を迎えたのだろう。そして、どんな夢を見ているのだろう。 最終的に投票率は55%に達し、しかも9割が反対の意思表示をした。この国は徳島から変わる。おとなしく地道と言われ続けた活動が日本の市民運動でもっとも輝かしい成果をもたらした瞬間だった。 一部の専門家、活動家の運動ならこれほどまでに拡がらなかった。真の喜びは苦悩を切り開いた心にのみ訪れる。ぼく自身はあと半世紀やりたいと思っている。 長くなったが、吉野川から住民投票に至るまでを岩井氏の視点でプレイパックしてみた。どんな過程がどのような結果をもたらしたか、おわかりになったと思います。 今できることを一生懸命やっていくしかない。 Copyright(c)1999-2000 Yoshinobu Hirai, All Rights Reserved |