四国の川と生きる | |
春の色 このところ晴れたり曇ったりで天気が安定しない。三寒四温である。けれども、少しずつ暖かくなっている。 ここは那賀川下流ののどかな集落である。土手に近い田んぼでふたりの兄妹がれんげ草を摘んでいる。あぜみちには、たんぽぽ、オオイヌノフグリ、ぺんぺん草が咲いていた。 春の野草にはそれぞれあそび方がある。だれでも知っているように、ぺんぺん草は実を引っぱって回すとジャラジャラ音がする。 れんげ畑でふたり遊んでいると、いつのまにか招き猫みたいな白い猫が寄ってきた。妹は両手をせいいっぱい前に差し出して、「おいでおいで」をしながらよたよたついていくけれど、猫の方はまるで相手にしない。というより、されるままにじっとしている。 裏の妙見山を振り返ると、黒くすすけた木の家が見えた。母屋に続く垣根の坂道をかけのぼる。家の裏には那賀川の水を引いた深い用水があり、その流れは強い。お兄ちゃんはこわごわのぞきこむけれど、妹はゴーという音が聞こえると逃げていってしまう。 笑うことと楽しいことの間に少しの距離もなく、無邪気な仕草をするたびに、ふたりの兄妹は大きくなっていく。疑うことを知らず、好奇心にあふれて問いかけるまなざしがひたむきであればあるほど、日一日と賢くなっていっただろうこの兄妹に会えたらどんなにかうれしいことだろう。 私は過去に戻ってレンズを向ける。するとレンズに気づいた子供は、きょとんと顔を上げる。 「なんだろう」 口元をきりっと結んでふしぎそうな瞳は微動だにしない。 妙見山へ遊山に行くのもこの頃だ。男の子の絵がたどたどしく描かれた空色の重箱がお兄ちゃんのお気に入り。三段重ねの重箱に寒天やたまご焼きを詰めて持っていく。昼間登った時、お兄ちゃんは那賀川の水面がきらきら反射するのを食い入るように見ていた。 夜になって、頂上付近に桃色のぼんぼりが明滅するのが里から見えた。お兄ちゃんは勇気をもってひとりで登ってみた。手拍子のカチッとした響きが山中にこだまし、そこへ唄の節とも思われないような不気味な合唱がけだるそうに聞こえてきた。こわかった。あれは鬼の宴会だと思った。声のする方をみないように、いちもくさんに里へと駆け降りた。 田に水が入った五月。おたまじゃくしに似た変な生き物が、せわしく足を動かして泥の上をすべるように泳いでいる。カブトエビである。 桜並木はせみの宝庫。せみ捕りには金網の虫籠をさげていくのだが、親戚の兄ちゃんは、おじいに作ってもらった竹細工の虫籠を持っていてうらやましかった。桜並木にいるのは、アブラゼミかニイニイゼミで、裏のくぬぎ林には、はねの透明なツクツクボウシやヒグラシがいる。こっちの方が高級感がある。 緑と赤が虹色に光る玉虫は捕まえたことがなかった。捕った、という子がいると見せてもらいに行った。 オニヤンマはさすがに大きかった。あの黄色と黒の縞がブンブン音を立ててこちらに飛んでくると、かみつかれそうな気がした。 そこへいくと、ギンヤンマの優美さは比類がない。陽光を透かしてみる葉裏のような胴体がひるがえっては、水辺をスイスイスーイスイと翔ぶ。ほんの少しラムネ色したはねを小刻みに動かし、とめてはまた動かす。トンボはちょうちょみたいにはねをしょっちゅう動かさないのである。 サルビアの花の蜜は甘いな。ホオズキの袋のなかには何が入っているのかな。サルビアやほうせんかの袋は子どもにいたずらされる。でもそのことによって、種を広い範囲にばらまいている。 夏の昼下がり。そろそろ来るかな──。 「チリンチリン、チリンチリン。う〜まいキャンデー」 (あっ来た来た、自転車に乗ったアイスキャンデー売りのおじさん。ハッカにしようかニッキにしようか) それは美味というよりも、にごりのない水彩絵の具を思わせる素朴な風味だった。一度食べると、もういいやと思ったりするけれど、あの鈴の音を聞くと、また欲しくなる。 人の住んでいない納屋の二階には瓶や壺を並べてある。畳を敷いてあるところが昼寝の特等席。時折、土手の中段をカブやオート三輪が、トトトトッと通りすぎる以外はせみの声しか聞こえない。 稲穂はたなびく順番を待っている。 (風そっと吹いてみろよ) 稲穂が熟れて、草いきれからわらの香ばしい匂いに変わったとしても、あぜみちの平凡な事件にすぎない。 「りすは秋のあいだ、せっせと食べて冬ごもりにそなえます」と、巣のなかで丸くなっている絵本のさしえ──。高い空に柿の実がぽつんと一つ残されていた。 こうして太陽の回りを地球が一周してまた春になった。 ふたりの兄妹は、家の前の那賀川で遊んでいた。この辺りはひろいひろい河原があり、下流なのに流れが速く、南から北へ蛇行した川が北岸にぶつかり、土手の下は渦を巻いた水がいきどおっていた。土手をはさんで里の方には「どんがん淵」という池があるが、河童が住んでいるから近づくなといい聞かされていた。那賀川はこのところ降り続いた春の大雨で濁っていた。一雨ごとに水が上がって暖かくなるとおじいは言っていた。 普段よりも小さくなった河原でぽつんと菜の花が一本咲いていた。妹は摘もうと近寄った。でも摘めなかった。お花が話しかけてきたから、と言った。 (どんなこと?) お花があいさつしているようで「何だかすうっとした」そうである。お兄ちゃんにもわかった。ただしお兄ちゃんには、「先生に叱られたこと、気にしないで」と言ったそうである。 川には近づかないようにとあれほど注意されていたにもかかわらず、ふたりの兄妹は来てしまった。なぜだろう。 それはつくしである。つくしんぼが土手いっぱいに生えていたからである。節くれだったマッチ棒のようなかたちは、小人のように可愛らしく、子どもの心を引きつけずにはおかないのである。 妹がかぶっている麦わらぼうしは、母親が日焼けしないようにと持たせているお気に入り。妹はその麦わらぼうしに、摘んだばかりの宝物をどんどん詰め込んでいく。ふたりがかりの作業の結果、またたく間にいっぱいになり、手のひらは草の汁でべとべとして草くさくなった。 緑のらくがきを落とそうと、お兄ちゃんは浅瀬がつづく安全な場所まで妹を連れてきた。手のひらをこすってやる。指先まで透き通る冷たい川の水に、二十本の指が踊っている。冷たくないかと顔をのぞきこんでやると、妹は顔を真っ赤にして「つめたい」と後ろを振り返ってお兄ちゃんにてのひらを見せる。 以前、お兄ちゃんがかぜで寝込んでいるところへ、妹が「遊んで」とやってきた。お姉ちゃんはまだ、バレーボールの練習から帰ってなかった。お兄ちゃんは「熱があるからしんどい」というと、妹は、お兄ちゃんの額のあたりに手をあてて神妙な顔つきをした。その母親のような所作にお兄ちゃんは吹き出してしまった。あれから少しは手のひらも大きくなってはいるのだけれど、やっぱりちっちゃな手だなとお兄ちゃんは思うのである。 手をふいていたお兄ちゃんは妹の頭をなでながら言った。 「兄ちゃんがつくしんぼ持ってやるけん、おぼうをかぶろな」 兄と妹の歳の差は九つ。これくらい歳が離れているとけんかにはならない。ときどきしかられて反抗することもあるけれど、お兄ちゃんは、どうしてなのかな、と同じ目の高さで一緒になって考えてやっていた。結果的に妹が自分で正解を発見した気分になっても、きっかけを与えるだけで手は貸さなかった。そうしてよかったな、よかったなと頭をなでてくれるお兄ちゃんになついていた。 「おにいちゃん!」 きらきら光る水面に負けないぐらい楽しそうな妹のはしゃぐ声。そんな兄妹を春風が妬んだのだろうか。岸に置いてあった、つくしんぼ入りのぼうしが風に飛ばされて川に落ち、浅瀬を流れはじめた。 この帽子は、デパートに行ったときに一目見るなり気に入ってしまい、抱えて放さなかったものだ。まだ早すぎるよ、これは大きいお姉ちゃんの帽子よ、という母親の言葉に耳を貸さず、いつものようにおもちゃ売り場に連れていってもらったのだが、りかちゃん人形や積木ブロック、クマのぬいぐるみ、くるみちゃんのお家、モウモウ牛さんには目もくれず、母親の手を帽子売り場へとひっぱっていった。 いったいおもちゃ売り場ほど、胸踊る場所はないだろう。お兄ちゃんはとうにおもちゃを卒業してしまったけれど、五歳の頃に当時五百円もする大きなきかんしゃをみて、その場に立ちすくんで駄々をこねたこと、そしてやっと買ってもらったことを昨日のように覚えていた。あのきかんしゃの上に乗ってよく遊んだな。それから電蓄の上に乗ってぐるぐる回したけど、壊してしまったな。あのきかんしゃ、どこに行ったのかな、などとお兄ちゃんは思い出していた。 幼い子は、自分に合うおもちゃを一目見ただけで見抜いてしまう。小さな心が見つけた宝物である。でも、ある日突然そのおもちゃに見向きもしなくなってしまうことがある。おもちゃに飽いたのだろうか。それともまた別の宝物が見つかったのだろうか。 いずれにせよ捨てられるおもちゃこそ悲劇的ではあるが、「こんなにボロボロになるまで使ってくれてありがとう」とか、「もう少し大事に使ってね」「あんなに喜んでくれてぼくは満足しているよ」……汚い手でさわられて薄汚れてしまうおもちゃたちだけど、口が聞けたらきっとこんなふうに言うだろう。おもちゃたちが顧みられなくなるのは、狭い家に足の踏み場もないほど散らかるおもちゃを見て、まだお金(心)にゆとりのない若い母親が、子どもの心が成長した証拠だと気づく前に、気前よく捨ててしまうせいかもしれないのである。 お兄ちゃんは妹の優しい気持ちを大切にしてやりたかったにちがいない。事故の後で何であんな帽子のためにとみんなが涙を流しても、お兄ちゃんはもう帰ってこない。 ズボンをまくってお兄ちゃんは浅瀬に入った。足がこごえそうだ、でももう少しだとお兄ちゃんは思った。目の前を流れる帽子に手を伸ばした。 (届いた!) 笹濁りのため、底が見えにくくなっていた。流れを下っていくうちに川の真ん中に出てしまい、気づいたときには、岸に戻れないほどの水流になっていた。川底の斜面を駆け降りるように足が勝手に動きだして止まらなくなった。気が付くと、渦巻く深みが目の前に迫っていた。焦ったお兄ちゃんは流れに逆って戻ろうとしたとき、苔の生えた石に足をとられた。おそらくその時に転んで頭を打った衝撃で右も左もわからないまま瀬を転がり、やがてあの白波の立つ淵にのまれていったにちがいない。突き出たテトラに身体をむしり取られながら即死の状態であったか、あるいは朦朧とした意識のまま、水が苦しかったのか。 (おにいちゃーん) 何が何だかわからないまま、ただごとではない悲鳴をあげて、流されていくお兄ちゃんを見送った妹の心中を誰が想像することができるだろう。河原にうずくまっていた妹を近所の人が見つけた時には、もはやお兄ちゃんの姿はどこにも見えなくなっていた。 そして、お兄ちゃんをのみ込んだ那賀川とお空が真っ赤に泣いていた! 時間が経つにつれ、一抹の希望が絶望に断定される時期になっても、なおあきらめず、家族や近所の人たちが海までの河原を捜索し続けた。けれどもお兄ちゃんは発見されなかった。 「どこにいるの!」 ──祈るような母親の声。 「わしと代わってやりたかった」 うずくまる祖父。 「せめて、遺体を家族の元に返してあげたい」 仕事を一週間休んで朝から晩まで川筋を探した近所の人。 今日で全体捜索は打ち切りというその日の朝、十キロ下流で半身になって沈んでいるところを発見された。遺体は水膨れが進み、血が吹き出た跡が何箇所もあった。顔は遺族さえ直視できないほど変わってしまっていた。せめてきれいな姿にしてやりたいと、ガーゼで拭いてやりながらぶよぶよのからだを抱きしめる親の心こそ、哀れだった。たったひとりで旅立とうとしていたお兄ちゃんは、多くの人に見送られて昇天したのである。 二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ 〔万葉集 一〇六〕 命がどれほど尊いかなどと今さら言うことはない。兄妹の血のつながりがどれほど濃いものかを想像することも困難である。 その夜、妹はお兄ちゃんに馬乗りして空を飛んだ。まちの灯がどんどん小さくなっていく。 (おほしさまに手がとどくかな) 妹はお兄ちゃんの背なかの上で声をたてて笑った。 ゆりかごのうたを かなりやがうたうよ── ふと、妹は気づいた。お兄ちゃんのからだ、どうして、こんなにつめたいの…。 お兄ちゃんは笑っていなかった。 お兄ちゃんの背なかに寄り添ったまま、妹の頬をひとしずく星が流れた。 Copyright(c)1999-2000 Yoshinobu Hirai, All Rights Reserved |