「四国の川と生きる」 テキスト編 その2 「循環する水、循環する時間、四国をめぐる」 循環する水、循環する時間 人は二十歳過ぎまで教育を受け、社会人となって働きはじめ、やがて家庭を築く。その過程で学ぶことを忘れ、感性を閉じ込め、社会の形式に自己を埋没させてしまう。どうしてそうなってしまうのか。 それは、生活設計がやり直しのきかない直線になっているからではないか。人生九十年ともなれば、退職してからの時間が数十年残されている。その時間をどう過ごせばいいのか。 もしかして、他に自分の生きる道があったのではないか。自分がやりたいことは他になかったのか。社会から排除されることを怖れて、自分が傷ついていると人に言えなかったのではないか。ひとりの人間としてみたいこと、家庭人として果たすべきこと、社会人として望むことの間に距離はなかったのか。 水はめぐり、季節は繰り返し、いのちは世代交代をする。それが自然の本質であるならば、人と自然の共生とは、何千年、何万年もかかって繰り返されてきた循環する時間をヒトの一生に取り入れることではないだろうか。 循環する時間とは、一生のうち、何度か必要になる充電期間のことかもしれない。ボランティア活動、家族と絆を深める時間、自分の新たな可能性を試すための準備期間、若い時しかできないこともある。例えば、長い放浪の旅に出る…。 そんなふうにやり直しのきかない直線的な生き方から、循環的な生き方へ変えてみる。間違っていたら人生は何度でもやり直せる、そのことに気づくこと。それが生き甲斐につながるのではないか。だとすれば、筒井さんは生き甲斐を見い出しているのではないか。 「大変でしょうけど、きっと未来の子どもたちに感謝されますよ」 「そう思て年寄りもやってますわ」 どうそお元気で、と辞した。ぼくは雑木林が水を育んでいるだろう、未来のこの村を想像した。 ダムとともに泣き笑いの人生。 おだやかな微笑みは絶えることはなく、 人と自然の共生は循環する時間のなかにある──。 ダム湖にかかる橋を渡り終えようとして、異様な光景に目が止まり、車を飛び降りた。目に写る画面の上半分は、青い空と緑の山。けれど、水が引いた下半分は泥の砂漠。このコントラストはいったい何だろう。 今回の渇水では、ダムの恩恵をもっとも受けていた高松市が水不足に悩む結果となった。早明浦ダムの完成後、讃岐平野ではため池が次々と埋め立てられた。これに対して、独自の水源を持つ市町村では渇水はそれほど深刻なものにはならなかった。この明暗は、巨大ダムに頼る水源開発の限界をはっきりと示している。 香川には満農池という大きな池がある。この池は、今日でも通じる高度な技術思想と大勢の人足を動かした情熱の人、空海によって修復された。密教を究めて自然の摂理を肌で感じ、俗界で最高の地位に昇りつめながらも、いつも人々と共にあった彼が生きていたなら、讃岐平野のため池をつぶすようなことはしなかっただろう。 水を厄介物にして「早く出ていけ」と追い立てずに、「もう少し遊んでいけ」と歩かせる──ため池を作り、森や田に水を貯えてきた日本人。それは、時間的に変化する水量を空間的な広がりの中に貯え、時間をかけて対処することで、自然の変動のリズムに対応しようとしたものだった。 「今からでも遅くない。昔の人の智恵に学べ」 再び地上に現れた村役場は、そう問いかけているように見えた。長い年月をかけて綴られた山村の暮らしには、箴言が隠されている。 川とは… ダムの上流は、川底が上がって洪水の危険にさらされる。天候の予測がはずれたりゲート操作を誤れば、ダム放水による洪水に見舞われる。ダムの底にはヘドロや土砂が溜まり、数十年でダムが使用不能になっても対策はない。一方で砂の供給が途絶えた海岸線は浸食される。ダム湖には赤潮が発生することもある。水温が下がり、魚がいなくなった川から子どもの姿が消える。 それでも「もっと水を」「もっと電気を」と新たな需要を煽る企業や自治体。だが、水や電気は無駄遣いされ、地球の豊かな地表をはがしていく。 失われた水辺は二度と戻らず、水の底に沈んだ村は札束に化け、甘い汁をめぐって政財官の癒着と腐敗を生む。ダムに反対すれば、国や県に締めつけられて村は滅びるしかない。利権をめぐり村人同志が対立し、争いの村から人が消える。無人の村に立派な道路を付けても通る車はない。こうしてむらの共同体は崩壊する。 戦後の日本の高度経済成長を支えた経済構造は、ある時代には重要な役割を果たしたかもしれないが、同時に、人(自然)が、自ら健全な身心(生態系)を保つ自律作用を失うことにつながったのではないか。 すべてがそうではないかもしれない。しかし多目的ダムは、人間の良心の墓場である。 二十年以上にわたって村を挙げてダム計画と向かいあっている村がある。徳島県の那賀川上流に位置する木頭村である。しかし木頭村も、反対運動に多大の犠牲を払った。ダムをめぐる利害の狭間で、村の実務をとりしきってきた温厚誠実な助役が自ら命を絶つという悲劇もあった。 農林業の普及改善が村の振興につながると信じていた藤田堅太郎さんは、数十年前から村の有志とともにゆず栽培の研究に取り組んだ。その結果、ゆずは木頭村の特産品として定着した。しかし、いいゆずを収穫するには手間がかかる。年々高齢化が進む村人にとって決して楽な作業ではない。そこで、もう一本の柱として堅太郎さんが考えたのが銀杏である。自家所有の山林に三百本の銀杏を植えて試行錯誤を繰り返していた。堅太郎さんは助役とともにダム対策室長を兼任し、先頭に立ってダム反対を訴える村長を支えてきた。 木頭村は藤田恵村長の下、ダムに頼らない村づくりの一貫として、村の産物を生かした製品づくりを始めた。なかでも大豆ケーキは、健康志向の現代にぴったりの食物繊維の多い低カロリー食品として脚光を浴びようとしていた。 順風満帆に見えた事業であったが、さまざまな困難に直面した。堅太郎さんは律儀で人一倍責任を背負う人であったらしい。助役としての多忙な日々に加え、工場の実質的責任者でもあった堅太郎さんの心労は限界に達していた。平成八年九月のことである。 ダム計画が持ち上がってから二十数年。村の将来を担った青年も還暦に達し、天寿をまっとうすることなく力尽きた。地域の意思をどうして国は尊重しないのか。村の助役を殺したのはダムではなかったか。 堅太郎さんの死から半年後の平成九年春。建設省は、細川内ダムの建設を一時休止すると発表した。 ダムを作れば国から巨額の金が入る。しかし木頭村は、ダムに頼らないむらづくりを選んだ。子どもや孫の代まで暮らしていける未来の村を目指して──。木頭村にエールを送ろうと、藤田村長のもとには全国から励ましの便りが絶えることはない。 落ち葉ひとつ海にたどりつけない 山の神様泣いている 海の神様泣いている 川は声を出さずに泣いている 豊葦原瑞穂の国を豊かに流れた三万本の川は、息もたえだえである。川殺しの時代はまだ続くのだろうか。 新潟大学の大熊孝教授はこう言う。「川とは、地球における水循環と物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾の中に、ゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である」。 徳島市近郊の佐那河内村で料亭を営んでいる岩本光治さんは、川による魚の味の違いを見究める。例えば、花崗岩質を流れる川の魚はおいしいという。概して小さな川の魚は骨が固く、大きな川の魚は骨がやわらかい。吉野川は大きな川にしてはいける方で、それは穴吹川などの支流の水がかかわっている。さらに、ダムや河口堰ができると海の魚の味は悪くなるという。いい川があるところにいい海があり、美味しい魚がとれる。岩本さんは環境問題の本質を、本物を見究める眼を通して語っているように思える。 そういえば、人間の味覚を司る舌という器官は、亜鉛などの微量ミネラルが作用する。川のミネラルは魚の味に影響を与えるが、それを味わう人間の舌にもミネラルが欠かせない。 山からの微量元素が海の生産性を支えていることを全国に知らしめたのは、『森は海の恋人』の著者、畠山重篤さんである。 牡蠣の養殖に携わる畠山さんは、北海道大学の松永勝彦教授(海洋化学)と気仙沼湾の調査を進めた結果、そこに流れ込む大川が湾の生産量の90%を支えていること、また水深二十メートルまで川の水が浸透していることなどを突き止めた。松永教授は、広葉樹の落ち葉の堆積した土壌を流れる水に含まれるフルボ酸鉄という物質が、植物プランクトンの生育に大きく関与していることを明らかにしていた。 こうして海の漁師たちが、上流の室根村の森に広葉樹を植え始めた。「牡蠣の森を慕う会」と名付けられたその活動は、十年目を迎えてますます広がりを見せている。 森は海を海は森を恋いながら悠久よりの愛紡ぎゆく (熊谷 龍子) 『森は海の恋人』は、歌人熊谷龍子さんのうたから生まれた。畠山さんは次のように書いている。 ──貝から真珠がこぼれるように、『森は海の恋人』というフレーズが誕生した。それは、武雄、一六、龍子と、百年がかりで育まれた、柞(ははそ)の森のしずくのような言葉であった──。 柞とは、コナラ、クヌギなどの古称である。龍子さんは、田園歌人といわれた熊谷武雄の孫であり、農林業を営みながら、晴耕雨読の暮らしの中から歌を紡がれる。 ある年の二月、熊谷さんと畠山さんは揃って徳島の勝浦川へ来られたことがあった。四国は初めてなので行きたかったの、と言葉を選んでおだやかに話される龍子さんと、決して雄弁ではないが、興が乗ると熱がこもってくる畠山さんは、森と海のような二人であった。 森は海の恋人…その背景には、もう一度沿岸漁業を見直してみようとする漁師の心意気がある。身近な自然を通して、自分たちの暮らしを足元から見つめていこうとしている。 こうしてみると、森や川を保全することが生活をささえていることに気づく。そうなって初めて、地域の活性化と環境保全が結びつき、環境問題に対する人々の意識や行動が生活感を伴って実践されるようになる。 四国三郎の恵み、西から東へ 数十キロメートルにおよぶ険しい渓谷、大歩危・小歩危は激しい瀬、深い淵、露出した巨岩を透明な水が洗う日本でもまれにみる急流渓谷である。かつては旅の難所だったが、国道が渓谷を走る今では、高松と高知を結ぶ四国の背骨となっている。 大歩危から支流祖谷川を遡ると、平家の落人伝説で知られる秘境祖谷の集落に出る。祖谷の人たちには背筋を正すような凛と張り詰めた気配が漂う。男たちは土木工事に出かけ、女たちはソバやイモを家のまわりで育てる。お正月の雑煮は餅ではなく、イモである。 祖谷の東にある霊峰剣山から、三嶺、さらにその西の天狗塚にかけては、風わたる笹原の縦走路となる。三嶺へはその南面の高知県上韮生川源流のフスベヨリ谷から沢を詰めていく。そこには鬱蒼とした深い森がある。 見えないもの 見えるもの 人には見えぬもの 鳥には見えるもの 精霊は今もここに そこは深き泉水 山懐に抱かれて 静寂夢魂 生命無痕 苔むし 屍さらす処 流れて大岩 ──そしてカミ宿る樹 魑魅魍魎は汝自身かと問いかける 風のざわめきやむことをしらず 沢沿いには見たこともないような植物が密生している。樹木の一本一本に視線を移しながら足音を消して進む。ほのかに甘い沢の水、その冷たさを口に含みつつ胸突き八丁を匍匐前進すると、通称アオザレと呼ばれるがれ場が見えてくる。アオザレを左に眺めながら尾根に取りつくと、三嶺の頂上は近い。森のルールは森が教えてくれる。それを感じられる人だけが行けばいい。 池田町を過ぎると、吉野川はくるりと向きを変えて西から東へ流れる。太陽が川から登り、川に沈んでいく。 かんどり船の人 影絵となり 竹林はざわめきを止める ヒグラシの声 遠く響き 水紋があちら こちらで 泡立つ 物音ひとつしない 川の時間 ひたひたと 地球のしずく色に 染まる みんな染まる 池田町から善入寺島にかけては、長さ五十キロ、場所によっては幾重にも川を囲みながら、二七〇ヘクタールにも及ぶ竹林の帯が続いている。 竹林は、地中にしっかりと根を張って土手を守るとともに、その枝で氾濫する水の勢いをくい止め、田畑に肥沃な表土をもたらす。それは水害防備林と呼ばれ、洪水から身を守るため、流域の人々が数百年かかって築き上げてきた。 マダケを主とする吉野川の竹林は、さまざまに利用されてきた。建築材料、竹細工の材料、食べ物の包み、ときには子どもの釣り竿にもなった。 笹の葉を洗って火でいぶし、お湯を注ぐと香ばしいさみどり色の茶になる。澄んだ川の淵を連想させる色である。竹の筒にご飯を入れて炊いてもいい。 竹の子の煮つけはおいしい。鰹節と醤油だしにほんのりと甘さが漂い、コキコキとかぶりつく。うまい。てんぷらにしてもうまい。 素材としての竹は軽い。裂けやすいがしなりがあり、編み上げると柔軟性があり、美しい造形を保ちながら強度は高いものに仕上がる。入手しやすく容易に加工できる竹は、大昔から細工にうってつけの素材だった。 竹は六十年ないし百二十年に一度開花して枯れるという。しかし、十数年で元の旺盛な竹やぶが蘇る。伸び盛りの若竹は1日に1メートルを越えて生育することもあるという。竹の伐りだしは、樹勢が弱まる秋から冬にかけて行われる。 真っ直ぐに伸びながらも、節があり、しなやかで生命力に溢れている。そんな竹に古人は神秘的な霊力を感じ取り、竹取物語などの民話も数多く生まれた。各地に、竹の神輿、竹を割る祭り、竹に火を放つ祭りなどがある。 中国では、女子が針仕事がうまくなりますようにと、やぐらを庭に立て、お供え物をして牽牛と織女の星にお祈りをした。 日本では、棚に機を設けて神の降臨を待ち、神とともに一夜を過ごす聖なる乙女の信仰があった。中国の星祭りである乞巧奠(きこうでん)と、日本古来の棚機女(たなばたつめ)の信仰が習合して七夕の風習になったと伝えられる。六日の夜には、五色の短冊に歌や字を書いて竹に結び、手芸や習い事の上達を祈り、七日には川に流して七夕送りをした。 神が降臨される聖域として竹で依り代を作るのは神事である。最近では竹炭にして水の浄化に役立てるなど、その機能が注目されている。 密生した竹林に分け入り、踏み跡をたどると、延命地蔵と彫られたお地蔵様があった。水難防止への祈りが刻まれているのだろうか。 時間とともに老朽化する鉄やコンクリートとは違い、竹林は適切に手入れをしていくと、何百年も世代交代しながら再生していく。それは、いのちが循環する生きた堤防である。 日本最大規模である吉野川中流域の竹林の回廊は、洪水と付き合ってきた先人の知恵である。世界遺産に指定して保全することはできないだろうか。 水辺は、植物の宝庫である。水に近づくにつれて、河畔林、湿地の植生、抽水植物、浮葉植物の順に分布し、太陽の光が届きにくい水面下には沈水植物が生育する。陸と水が変化しながら接する水辺、海水と真水が接する水辺には、多種多様の生物が棲んでいる。 生物の絶滅の速度を昔と比べてみると、一万年前は、百年に一種類くらいの生物が絶滅していたにすぎない。今では、一年に四万種類の生物がこの地上から姿を消しているという。生物は互いに影響しあい、つながりあって生きている。絶滅した種は二度と現れることはない。 死ぬために生まれてきた遺伝子を知っていますか 名前はアポトーシス死の遺伝子 自ら計画して死ぬことで生物のカタチをつくる それを持つ生物は繁栄できた 遺伝子も利他の心を持っていたこと 知っていましたか やがて訪れる死 その設計図も遺伝子が書いた 固体数が増えすぎると種は滅びる だから自然に死ねるのはいいこと 生きることに一生懸命になれる 生物の体を遺伝子の宿とすると、生物種が失われることは、遺伝子の多様性が失われることを意味する。進化論によれば、弱い固体を持つ遺伝子は淘汰されるはずだが、どうもそうではないらしい。生物が互いに関連しあって生きているように、遺伝子もネットワークとして生物間を越えて連携している可能性があるらしいのだ。 農業では、数年で品種改良が必要となる。年数が経つと元に戻るからである。品種改良に際しては、その土地に生えている雑草を掛け合わせる。食料危機を救うのは雑草だ、という人もいる。 人類にとってやっかいなインフルエンザやエイズ、がんなどの難病に効く薬効成分が、植物や微生物中に存在することもわかってきた。同じ種でも地域が変われば遺伝子は異なる。とりわけ生物種の宝庫である熱帯雨林は、かけがえのない蔵書(遺伝子)が無限に詰まった地球最大の博物館ともいわれる。生物の多様性、遺伝子の多様性こそが健全な地球の姿であると気づいた時、地球の生態系は危機的な状況になっていた。 アメリカでは、生態系に影響を与える公共事業の必然性について国民から非難の声が上がった。そのため、行政に都合の悪いデータもすべて公開し、計画の是非を住民の判断に委ね、すべての情報(電話の打合せやメモまでも)を白日の下にさらして公開するという。南フロリダのオーメン博士から夕食を共にしながら聞いた話である。そして、事業の計画から実施に至るすべての段階で、住民を交えて、行政や専門家と論議を繰り返す。博士は、明治天皇の言葉を引用して「みんなで徹底して議論しよう。時間はかかっても、いい結果になる」とおだやかに語る。 フロリダでは直線化した水路を、元の蛇行する自然河川に戻した。この教訓から得たことは、最初に道を誤ると、巨額の費用を投下しても復元できる可能性は低い、ということだった。 アメリカ政府は「ダムの時代は終わった」と宣言した。建設を行わないばかりか、ダムを撤去して元の自然に戻すことも行われている。 そのきっかけとなったのが、1993年にミシシッピ川で起こった氾濫である。数カ月間水没した地域もあり、500年に一度の大洪水といわれた。その被害を連邦政府が綿密に調査検討した結果、川を人為的にコントロールするだけでは洪水はもはや防げないと結論した。際限のないダム建設やコンクリート工事が自然を破壊し尽くし、そのツケが災害と財政難という形で人間にはねかえってきたのだ。 そこで、自然と敵対するこれまでのやり方を改め、水を逃がしてくれる湿地や遊水地を見直すなど自然条件を生かしながら、被害に遇いやすい地域には保険制度で補償するなど、地域毎の危機管理(水管理のソフト面)に目を転じた。そんな総合的な水とのつきあいが大切と教えてくれた洪水だった。 日本の国家予算は事実上破たんしており、出生率の低下、高齢化社会の到来からみて歳入はさらに減少する。そのうえ、多くのダムや堰などのコンクリート構造物が21世紀中に老朽化するという。そうなると、だれが建て替えるのか。 持続的な社会であるためには、特定の施設に依存せず、流域全体で洪水に対処する必要がある。自然をねじ伏せる技術から、自然に寄り添う技術へと転換しなければならない。 河川法はそのような方向性を取り入れて改正された。川は決して特定の団体や権利者のものではない。川を地域の人々の手に取り戻し、川と密接にかかわることが、豊かな地域づくりのための第一歩ではないか。 水と光の国、四国は可能性を秘めている。原石に少し角度を変えて光を当ててやれば宝石となりうる。 四国のことは四国で決めよう。心豊かに暮らす人が住む地域を創ろう。四国に限らず、日本の各地ですぐれた人材が野に咲いているに違いない。その人たちの夢が生かされる仕組み、生活者の声を反映した政治や行政──「地域主権」をめざそう。 こんなことを言う人もいる。「四国という字には、八と玉が囲われている。すなわち、四国には神と王が隠されている」。 ある人は「四つの国、八(八十八ケ所)を回ると、玉(美しいもの)に出会える」。 別の人は「四つの国を合わせてしあわせ」と読む。こうした言葉遊びもおもしろい。 四国はお遍路さんの巡礼する土地である。過去を忘れ、死に場所を求めてお大師さんと同行二人の旅に出る人の胸に去来するのは、そんなロマンではないにしても、八十八ケ所を四十日間かけて巡る旅は自分を見つめ直す時間に違いない。 ←1ページ / → 3ページ ▲戻る |
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