「創るもの壊すもの」

 伝統や習慣が現存していること。例えば、里山、昔の治水技術、伝統芸能、経営…。ぼくはそれらのなかに身を置いて耳を澄ましてみた。風を感じてみた。

 そこには共通のテーマが見出された。それは、何を壊し、何を受け継ぐのかということ。存在意義は時代によって変わってくる。しかし不変の部分と、時代によってカタチを変えることがいっそう純度を高める部分がある。それをどう見極めるか。

 NHKの夜遅くの番組で、博多人形づくりをめざしている藤瀬知子さんという若い女性のドキュメンタリーが放映された。そのなかで印象的だったのは、彼女が爪を伸ばしていたこと。その意味を問われると、「伝統のなかにどっぷり浸らないために」と答えた彼女の強いまなざしが印象的だった。

 爪を伸ばすことは細かい作業ができないことを意味する。けれど、爪を切ることで失うものを避けている。博多人形はコレクターだけの収集物ではないはず。自分が創るということは、等身大の自分の姿を投影したものであるはず。それは「自分の花」であり、二十代が持つ「時分の花」かもしれない。伝統に埋没して花を消してしまうことはできない。伝統は壊すもの。新しい創作遺伝子を得てこそ、伝統文化は命脈を保つことができる。

 しかし時代に受け容れられるものを狙えば、それは時代とともに古びてしまう。では時代を超えるにはどうすればいいか。そのためには、時代を深く呼吸し、感じ、洞察して時代をいったん飲み込んでしまう。それを再構築することではないのか。

 地域の人たちによって自主的、自立的、自律的に対応するしくみ。もし国が破たんしても地域が地域を守る持続的なしくみ。財政破たん、公共施設の老朽化、人口の減少、自然との共生。それらは、地域の人々が手の届く範囲の技術で解決できるしくみ。そんなしくみを創造できないものか。

 いくつもの世代を重ねて地域の人たちが暮らしの実感としてカタチにした伝統や慣習を一度すべて分解して再び組み立てていく。壊してはいけないものを壊し、付け加えてはいけないものを付け加えた二十世紀。
 大晦日、ひとりの事務所で机に向かって総括したら、もう二〇〇三年。


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