「唱歌と童謡」
いまだから、心で鳴らしたい唱歌
幼い頃に音楽の時間で習った童謡や唱歌はその後の記憶に刻み込まれる。しかしその歌詞は不思議である。私が子どもの頃でさえ使わなくなった言葉があふれている。「夕焼け小焼けの赤とんぼ、おわれてみたのはいつの日か」では、赤とんぼの気持ちになって虫取り編みを持った子どもに追いかけられた心情をうたったもの。「十五でねえやは嫁に行き…」は、姉が嫁ぐ弟の気持ちを代弁したもの、などと思っていた。「追われた」ではなく「背中に負われた」のであり、おぶってくれたのは、実の姉ではなく子守をしてくれた娘である。「お里のたよりも絶え果てた」に戻らぬ時間を抱きしめる心がみえる。作者の三木露風がこの曲の解釈に示唆を与えているが、主語や背景が省かれた抽象的な言葉で語られているから解釈に幅が生まれる。
「春の小川はさらさら行くよ」の原風景は東京の代々木周辺の小川(いまは暗渠)であったという。東京といっても都心を離れれば田園風景が広がっていたのだろう。
「菜の花畑に入り日薄れ…」の光景は人の暮らしが太陽とともにあった時代ならでは。日没が投げかける黄昏劇場でぽつんと家路に向かう人の胸に去来するは一日を終えた安堵感。そして菜の花畑の小径をとぼとぼと歩く時間を噛みしめながら暖かい灯火と夕げを思う。
童謡や唱歌のなかには今日ではまったく使わないが、その響きだけで人々を魅了する言葉が散りばめられている。「狭霧(さぎり)消ゆる湊江(みなとえ)」(冬景色)、「煙たなびく苫屋こそ」(我は海の子)など。
そういえば、「夕焼け小焼け」が映し出す光景も「朧月夜」と同様に心象風景のようである。山のお寺の鐘が鳴る頃、家路を急ぐ子どもたち。黄昏が見せる一種の無常観とともに一日を終えることへの感慨がこみ上げる。生命の活動によって生じるさまざまな背景音が潮が引くようにやみ、風も止まる。その静けさを縫って、厭世観を感じさせる虫の声が遠く近く響く。昼と夜が交錯する夕暮れは不思議な時間である。
誰もが知っている「しゃぼん玉」。この曲はしゃぼん玉を飛ばす子どもの無邪気さをうたっている、と思ったらそうでもないようだ。我が子を続けて亡くした(ひとりは生まれてすぐであった)作者の野口雨情の想いが投影されている。歌詞のなかで「風 風 吹くな」は消えゆく我が子に対する祈りでもあっただろう。いのちのはかなさをたたえながらもうたはあくまでも澄んで明るい。(モーツァルトのピアノ協奏曲K595にも通じる)天国的な透明度を童謡に閉じ込めてしまった。
あなたは志を果たしていますか? いまの中高年に郷愁とともに問いかけるのが「うさぎ追いしかの山」で始まる「故郷」。激動する昭和を駆け抜けてふと立ち止まったら還暦が近づいている。その胸に去来するのは、故郷の人たちと幼い頃の風景。
かつての日本の田んぼは農薬などを使わなかったため、コウノトリやホタルが当たり前に見られた。生物の連鎖を壊さなかった農業のため、人の手が加わっても「生物多様性」がほとんど失われず、それどころか人の手が入ることでいっそう生物と共存できていたのではないか。例えば、人里に棲むスズメ、田んぼを産卵に来るナマズ、水草があり蛇行して流れに変化のある畦の水路を住処としたメダカなど。唱歌の背景には、人と自然と生き物が一体となり、みんなつながっているという潜在意識があるのではないだろうか。
農村から都市へ、自然は鉄とコンクリートで固められ、人の心も変わっていく。それは誰もが夢を見ることができた時代でもあった。失われたもの、滅んでいくもの、そして新しい時代の交錯を描いたのがNHKのドキュメンタリー「新日本紀行」。娯楽番組には目も暮れず小学校の頃から必ず見ていた番組だった。
現実の世界で唱歌の景色をたどることは難しくなってしまった。そこでCDで唱歌を聞きながら、季節を感じながら心に情景を描いてみよう。
唱歌は子どもの声で聴きたい。けれど、あまりに子どもじみているのはどうかと思う向きには、キングレコードから発売されているNHK東京放送児童合唱団の「珠玉の唱歌名曲集」がいい。疲れたときに、立ちこめる霧のように「朧月夜」が左右のスピーカーからしみいるように始まると俗世間が霧消する。原曲がスコットランド民謡の「故郷の空」もいい。
「グレッグ・アーウィンの英語で歌う、日本の童謡」は、日本の童謡を愛して止まないアメリカ人のグレッグが英語でうたう。作詞(訳詞)は本人である。原文を忠実に訳すのではなく、その精神を忠実に、かつ外国人にもわかるように歌詞にしたもの。だが日本語の音節が長いため英語に訳すと言葉が足りなくなる。そこでうたの世界観を説明しながら韻を踏む。例えば、「しゃぼん玉」の次のフレーズはどうだろう。「Stronger ones need lots of soap, Weaker ones need lots of hope」。小さなしゃぼん玉(子ども)が大きく成長するためにはたくさんの希望が必要なのだと置き換える。うーん、これはすばらしい。
このCD、童謡に深い愛情を寄せる日本の童謡歌手、雨宮知子の素のままの飾らない歌がグレッグの英語版とともに収録されているので一曲で二度おいしい。さらに、なんと(テレビショッピングのようだが)素朴で和む挿絵の絵本が付いてくる。この挿絵は日本の6人の作家がそれぞれの個性を映しながらも素朴な世界観を揃えたもの。CDに絵本が付いたのではなく、絵本にCDが付いたというのが正しい(お値段は二千五百円)。
外国人では、スーザン・オズボーンの「和美」が忘れられない。歌というよりは深い呼吸のような「赤とんぼ」や歌のエネルギーが開かれていくような「紅葉」を聴いていると、音楽であることを忘れるほど。スーザンの歌唱は打ち寄せる波のようである。
日本人ではソプラノ歌手、有山麻衣子「幻のコンサート」がいい。声楽の歌い手が童謡や唱歌をオペラティックにうたわれるとたまらない。歌手の表現が雄弁であるほど、童謡や唱歌は壊れていく。有山麻衣子は透明な水のように唱歌に浸透していく。感情を込めながら表面はさらりと流れて童謡の世界に浸ることができる。
残念ながら、昨今の音楽業界はダウンロード音源や人々の音楽離れがあって経営が厳しい。気がつくと廃盤になっていて、インターネットオークションで高値で落札するという羽目になる。童謡や唱歌の好きな人は早い機会に手に入れておくとよい。
音楽の聴き方も変わっていく。アナログレコードやCD、SACDなどのパッケージメディアが廃れることはないが、それらを購入したうえでサーバーなどに保管しネットワークオーディオとして再生する機会が増えていくだろう。ただ手軽というだけではない。CDプレーヤーという回転系をもたない利点は、バッファリング(いったんデータを蓄積する)して信号の読み出しを行うことであるが、それが低ジッター(伝送で起こるさまざまな時間軸のゆらぎが音質に影響を与えている)で取り出せるとき、CD再生では果たせなかった新たな音楽の地平線が開けるかもしれない。
ちょうどいまぐらいの季節、山のふもとから小さな流れを遡って頂を目指した小学生が心の中で鳴らした音楽が「紅葉」であった。
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