「動作は始まる前から”始まり”終わったあとに”終わる”」


 成熟した日本社会は悪い面ばかりではない。ニュースを賑わせる海外の話題と比べると日本は落ち着きがあるように思う。例えば、災害時など非常事態が発生すると、自ずと互助的な動きが起こり、人々が助け合う。商店等は略奪の対象にはならないばかりか、商品を困っている人たちに提供し、その恩を災害処理が終わったあとも忘れず生きているのが日本人ではないだろうか。その奥ゆかしさがうまく伝わらず、日本の外交は下手だといわれているようにも感じる。しかしその精神はおもてなしやモノづくりに息づいており、そうした人や物語と接すると、日本の良さは徐々に伝わっていくとも考える。
 ここ数年、日本製を「メイド・イン・ジャパン」と明記した製品が増えているように思う。日本人にとっては国産の安心感、外国人にとっては精緻でていねいなモノづくりへの憧れがあるのではと思われるが、「メイド・イン・ジャパン」が実は国家ブランドではないかとさえ思うのだ。
 しかもこうしたブランドを構築する力は品質基準だとか、工場の設備規模というよりも、一人ひとりの作り手の誇りではないか思うのだ。念には念を入れて品質をつくりこむ、相手が見えなくなるまで見送るということが外国ではあるのかどうか。

 仕事柄JRの特急に乗ることがときどきある。朝の徳島駅のプラットフォームからJR職員が体操をしている姿が見える。そのなかで一人、動きが俊敏で躍動感のある体操をする人がいる。その姿は際だっていて凛々しいほどだ。体操の動きが良いからといっていい仕事をするとは限らない。けれども、もしこの人が車掌とすれば、この人の運転なら細部まで目配りができて安心だろうなと思ってしまう。
 いまは無人駅になってしまったが、二軒屋駅に朝の特急が通過時に、おじぎをする女性駅員がいた。会社からの指示とは思われず、その人の判断でやっているように見えたが、その所作は心がこもっていた。その姿に気付く人は少ないかもしれないが、一種の心の清浄剤である。
 特急列車では車掌が乗り合わせる。そのたびに乗り合わせた車掌の違いを見ている。デキル人とそうでない人は、声の出し方ひとつをとっても違う。改札の際、声を出しながら一礼をするが、その所作だけでその人の人間の幅というか奥行きがわかってしまう。相手に伝えやすく、そこに親しみを込めた声を出そうとしている車掌は、「意思疎通の扉をいつも開けていますよ」のメッセージを出している。それでいて、お邪魔にならないように心がけていますよ、のサインも同時に出している。それは、不特定多数に呼びかけているか、特定の誰かに呼びかけているかの違いといって差し支えないと思う。前者は呼びかけているようで呼びかけていないのと同じだ。
 こんな例えはどうだろう。もし、あなたがこれから選挙に出るとして、徳島駅前で街頭演説を行うとしよう。その際に「有権者のみなさま…」と呼びかけてみる。おそらくほとんどの道行く人は立ち止まらない。けれど、少子化対策が訴えたいので「五歳以下のお子様がいらっしゃるおかあさまがた…」と呼びかけるとどうだろう。該当する人がいたら「もしかして自分に語り掛けているのでは…」と思って足が止まることだろう(少なくとも耳は澄ますだろう)。
 デキナイ車掌はそこがわからないのだ。もちろん、選挙の街頭演説のように特定の誰かにアナウンスするのではない。しかし心のなかでそれを感じて声に出す人と、自分が出した声は誰に聞かれているか、聞いて欲しいのがない人と、アナウンスの効果は同じではないだろう。日本語を発生している人間ロボットのようで、所作や声がときに耳障りなこともある。いまは無人駅となってしまったが、朝の特急を見送る女性駅員が凛とした佇まいで一礼をして見送る所作は見ていて気持ちがいい(ほとんどの乗客は気付いていないと思うが)。自分の駅の乗客でない人も、私の会社(JR四国)のお客様というメッセージが視線を落とした地面に見えるような気がする。ほんの一瞬の所作でその人の日常までもが見える気がするから接客業は恐ろしい。
 「日常が見える」といったのは、その人が自分の人生に「魂を込めている」ことが、仕事のルーティンの所作を通じて見え隠れするからなのだ。相手に伝われば、別にそんなことにこだわらなくてもいいようだが、企業や商店の品質、接客レベルはそこにとどまったまま。経営者が従業員や接するのも、やはり違った意味で意思疎通が試されているともいえる。
 「魂を込める」ことが所作に顕在化するとしたら、所作を無し終えたときの心がしばしそこにとどまる感じとでもいおうか。動作は始まる前から「始まって」おり、動作は終わったあとに「終わる」ことを知っているとでもいおうか。それが感じられる人。

ケータイやタブレット端末しか操作しなければ、この真実は一生分からない。個人的に未だにPHSを使っているのは、多くの人に登録していただいているため電話番号を変えることができない事情もあるけれど、声の微妙な色合いが伝わるのはPHS方式と判断しているからである。数字の聞き取りミスなどを避けたいという思惑もある。

中国人観光客を迎えるに当たって、通用する常識、通用しない常識があると思うけれど、通用しなくても相手に届けるつもりの心を失っては日本のすばらしさは決して伝えられないと思うのだ。しかもこうしたことは、昨今のネットショップから失われているようにも思われるのだ。日本的な心を置き忘れたネットショップがいつまで伸びるか、どこで失速するか、インターネットにおいてもすでに淘汰が始まっているようにも思えるのだ。
 

 

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