「東北関東大震災に思うこと」


想像力を働かせる

 東北関東大震災は「想定を越えた」災害であったが、想定外の災害に対しても費用対効果を勘案しながら対策を講じるのが危機管理である。
 吉野川には、二百数十年、人々の暮らしともに存在してきた石積みの堰「第十堰」がある。現在も活躍する「生活資産」で人々の心に刻まれる風景だ。ハイテク装備に依存しない第十の堰は壊れても小型の重機で修復できるし、大洪水で損壊が起こったとしても水位を下げる安全側の事象となる。東南海地震で津波の襲来を受ければ、巨大な鉄とコンクリートを電子制御する可動堰は「想定外」の事態で電気系統がやられてゲートが動かなくなる事態に陥るかもしれない。人間が自然の脅威を防ぐことが不可能である以上、遊水地を確保しつつ溢れやすい場所で避難や保険などのソフトを充実させることが考えられる。石井町の重要文化財「田中家」では、軒下に避難用の小舟が吊り下げられ、未曾有の大洪水には屋根を切り放して舟として使う。危機管理には「想像力」が必要である。

 福島第一原子力発電所は地震の揺れに対する強度は大きな問題を生じなかったが(原子炉の緊急停止装置が作動)津波の備えができていなかった。
 技術者は、技術が「何のために」存在するかの拠りどころや判断の基準となる技術思想を持ちたい。技術思想とは「どうあるべきか」の根源的な考え方であり、「想定外」の事象にも思いをめぐらせるものだと思う。
 原子力発電は、核分裂反応の各段階(開始、稼働、停止)を制御する。ところが原子炉停止後の制御を電力に依存しているにも関わらず、バックアップ電源の冗長性が確保されていなかった。
 国際線の旅客機の乗務員は各々別の機内食を食べるという。万一、食中毒に陥った場合でもすべての人員が罹患しないためである。福島原発では、非常用電源の分散配置(陸側、地下、高い場所などに分けて設置するなど)や複数の発電法(も石炭、風力、太陽光など)を確保できなかったのか。
 今後は日本の原子力発電所の新たな立地は困難になると考えられ、既存の原子力発電所の安全対策の強化を進めることが肝要となる。ただ、今回の事故を受けて、原子力工学を学ぶ学生や原子力を社会に役立てたいと考える若い技術者がさらに減少することが懸念される。
 日本は世界第三位の原子力発電施設を有し、狭い国土にひしめくように立地している。人口の減少や省エネルギー技術の進展で電力需要が減少する可能性はあるものの、現時点で電力の2割超を賄う原発の使用を取りやめることは現実的ではない。ならば、暮らしや産業の省エネルギーを進めつつ、安全対策を強化し稼働している原子炉を安全に維持、運用していくしかない。そのために技術思想を持った原子力の技術者を育成する政策は国家の責務である。

大中小のなすべきこと

 被災者の「○○がない、足りない」という声は切実である。とはいえ、震災の初動期に点在する被災地を個別に支援することは困難である。被災し孤立した人々が限定された情報や方策しか持たない状況では、ひとつの共同体としてまとまることが生命を維持することにつながる。そこで人々は知恵を働かせて自立的なしくみをつくっていったのだろう。「この山の裏に沢があって煮沸すれば飲めます」「炊き出しは順番で担当しよう」「優先順位は○○から」などと情報を集めて分析し、自然発生的に立ち上がったリーダーの下、「するべきこと」と「役割」を決めて共同体を動かしていく。国の対策を待つのではなく、現場で判断して自立的に行動することがぜひとも必要である。
 未曾有の災害に見舞われた国土の復興には国の支援とそのための財源が必要である。税制面や金融面でも何らかの措置がなされるものと思う。県または県域では地元の情報を一元的に集約し救援資源の適切な分配や人材の配備を判断する役割が求められる。使命感を持って不眠不休で取り組んでいる公務員や医師、看護師を支援することはとりわけ優先順位が高いと考える。
 このように、国家がなすべき「大きな」対策、県や市町村がなすべき「中ぐらい」の対策、地区や個人がなすべき「小さな」対策は異なる。現時点で遠隔地からのボランティア派遣が見送られるのはそれぞれの役割が整理されていないからと考えるが、いずれ集落や地区の復興にはボランティアの支援が必要となる。「大」「中」「小」のしくみと有機的な連携を、災害の起こる前に備えよと教えてくれたのが今回の震災ではないか。

NPOや市民科学者の活躍

 今回の原発事故に対する政府の情報提供は、起きていること(客観的な事実、数値など)、それが意味すること、取るべき行動などが十分とは言えないものの示されていると思う。ただし情報が被災地の現場に届いているかどうかが問題である。避難場所とその現状の把握のための通信の手段がなかったし、情報のやりとりができたとしても、届いた支援物資を適切に分配するための人手が足りないなど、一つの対策が別の問題を生じてしまう。自身が被災者でもある方々が不眠不休で地区を支えていらっしゃる姿には言葉も出ない。
 内閣府には災害支援の専門的なノウハウや経験はない。初動期の原発事故、医療・生活支援、緊急を要するインフラ整備などの分野で専門的知見を持つNPOや市民科学者の経験が必要だ。社会の谷間に埋もれつつある大切な問題を掘り起こし、市民の目線から専門的客観的な判断材料を提供しようとする人たちである。彼らの存在の背景には「自分で考えて自分で判断する」成熟した社会への憧憬があるように思われる。日本はそんな成熟社会にもっとも近い場所にいると思う。彼らの助言を取り入れて行動計画を策定し、実行に必要な省庁間の調整等を行うのは内閣府の役割である。

情報と災害者の心理

 「沖合で津波が観測された」などの「悪意なきデマ」が流布されて広まっている。情報がないことが不安につながり、不信感や恐怖を増感させていると考えられる。情報には「手段」と「伝え方」の二つの要素があると思うが、「手段」についてはラジオが有力な道具であることは間違いない(これについては次回に)。「内容」については、発信された情報が被災者にどのように受け止められるかを深く考える必要がある。
 さらに懸念されるのは風評被害である。農作物や上水道への放射線の影響が心配されるが、すでに関係ない地域の農作物が暴落するなどの影響が出ている。被災していない地域の住民が買いだめに走ったり特定の食品を避けたりするなどの過剰な反応は慎みたい。同様に、必要以上に経済活動を自粛することも意味がない。被災された方々への配慮は当然であるが、人の心を明るくすることや経済活動を活発にすることは復興支援の原動力となる。
 日本はかつてない試練に直面し、未来は彼方に霞んでいる。けれど、そのことでこれまで気付かなかった知恵と勇気を感じることができるかもしれない。「ありがとう」。それが復興の原点となる。
(被災された方々に衷心よりお見舞い申し上げます)。

※本災害は、後に「東日本大震災」と命名されたが、原稿執筆時点(3/20)の記述となっている。

 

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