「形式主義、減点法。安全のつもりが実は…」


 年賀状を出したくない。この国が、世界がどう動くのかを考えると、新年の慶びを愛でる気分にはなれない。年賀状そのものが形式主義の象徴のようにも思える(なかには、そうでなく思いを込めて書かれている人も少なくないのだけれど…)。

 室町時代の禅僧、一休さんこと一休宗純が今の時代にいたなら、正月に骸骨を持って「ご用心」と説いたかもしれない。一休さんの行動の真意はわからないが、社会の無常を感じながらも現世の教訓として説いたような気がする。世俗にまみれながら世俗に背を向け、高貴な生まれとされながら貧しい身なりをし、感覚的な言葉のなかに論理を宿すことが矛盾することなく息づいていた人ではないかと。
 
 行政や公的機関などの委員会で、メニューをこなす(予算を消化する)ことが目的のような魂の入っていない議論に出くわす。議論が形式や作文の巧拙に終始し、肝心の施策の中味や目的についての議論が深まらない。「魂が入っていない」と感じてしまう。目的に込められるはずの願いや祈りが感じられないからではないかと思う。

 やることが目的化しているので、達成するプロセスもかたちをなぞるだけ。表向きはかたちが整うので監査や会計検査は通過するだろう。むしろ、成果を出そうと本気で取り組んだ結果、多少の行きすぎた解釈が出てきて制度上のグレーゾーンに突入し会計検査にひっかかることがあるかもしれない。ムダをムダと見せないテクニック(作文)が上手な人は出世するのかもしれないが、税金の無駄遣いは実は見えないところにある。

 事業仕訳も「かたち」を見ているだけのような気がする。宇宙開発や技術の進展にかける当事者の情熱よりも陳腐な理屈が先行し、「なぜ二番ではいけないのか?」などの発言が飛び出す(私は理想を高く掲げ、それを実現させたいという思いの強い人にかけてみたい気がする)。

 政策の実行はそれを運用する人間の裁量に委ねられる。そえゆえ、思いを持ってそれを実現できる担当者に当たれば、多少難のある政策であっても成果に結びつけることは可能だ。道具の評価(政策評価)ではなく、プレイヤー(担当者)の評価ではないかとさえ思える。理想は、制度でがんじがらめにするのではなく、冷静な分析力と熱意を持ち、謙虚にねばり強く行動できる人に予算を渡して好きにさせるのが一番良いように思う。

 閉塞感は政治や行政だけではない。モノづくりなど民間企業にまで及んでいる。サラリーマンのことなかれ主義が進み、一定のそれらしき根拠(コンサルタント会社の提案や定量データなど)と時流のキーワードを組み込んで合議でプロジェクトを進めれば反対の意見は出にくい。
 その際に活用されるのがアンケートだ。多くの人が望むことを製品やサービスとして取り上げることは「一定の根拠」はある。しかし、そんなことはとっくにどこかで実現されているだろうし、すべてが成熟期に差し掛かった現在は、万人が望むことを実現することはむしろリスクを負うことになる。経営資源は限られているし、脳の記憶容量にも限りがある。例え、トヨタであっても。

 日本製が信頼の証しであった時代が終わろうとしている。先日、パソコン用のUSB接続のスピーカーをインターネットで発注した。勉強会などで動画を紹介するときの音出しが内蔵スピーカーでは不足なので、事務所のデスクトップに接続しているタイムドメイン社(奈良県のベンチャー企業が開発した原音再生に革新的な技術を導入した製品)をはずして持って行くのだが、ACアダプターの持ち運びも含めて面倒である。ThinkPadの販売元であるレノボのサイトを見ると、中国からの送料込みで600円を切っている製品が見つかった。衝撃的な価格であるが、それでも採算は取れているはずである。だとしたら、そのビジネスモデルは? 製品の原価は?

 私は音楽が好きで、そのために人生があるようなものだと思っている。耳の能力は高く、極性の判定などは一方の接続を聞いただけで判断できる(マニアックな話であるが、ラジオやオーディオ装置などの音響機器を家庭の電源コンセントに差し込む際に、百八十度ひっくり返して差し込むだけで音質が違う。片方がアースになっていることに由来するもので製品へのノイズの流れが影響している)。それを片方の接続だけ聴いて逆接続と比較することなく接続が正解かどうかわかる。逆相であれば、高音が荒れて低音に艶がなく、音が不自然に広がって現実感に乏しいのだ。隣の部屋で聴いてもわかる。
 信頼する知人に紹介いただいたこの低価格スピーカー、奏でてみると中域を軸に音楽のエッセンスを伝えてくれることがわかる。このコストで「まともさ」を実現していることに驚く。

 サンヨーがまもなくパナソニックに統合され、一部は中国の企業に売却される。サンヨーの調理家電は、作り手の思いが感じられる数少ない白物である。数年で担当が変わり、意思決定は合議制で行い、コアな技術さえ外注するという典型的なサラリーマン社会のなかで生まれる日本の家電製品にあって希有の存在と思う。残念ながら、いまがサンヨーの電子レンジやトースター、炊飯器が購入できる最後の機会となってしまった。
 かつては理念を明確に持った創業経営者がいて、収益や株価を気にすることなく自ら信じる道を進んでいた。だから、従業員も同じ気持ちでいられた。多少のムダや行きすぎはあったかもしれないが、ときに放つホームランが企業を鼓舞し、社会には貢献をもたらした。「減点法」「責任を取らない合議制」「形式主義」がいつから蔓延してしまったのか。

 事例を教えて欲しいという要望が寄せられることが少なくない。行動とは、それを支える力学、例えば、人の思い、理念、熱意、感性と外部要因が噛み合ってうまくいくもの。
 だからよその成功体験の抜け殻ともいえる事例を追いかけるのではなく、丹念に真の課題を洗い出し自ら考えて行動するしかないと思う。そもそも失敗は成功を諦めた時点でそうなのであって、成功の過程のひとつと先人も言っていたではないか(人がどう評価するかではなく、自分がどう認識するか。それが「生きる」ことだと思う)。安全な足跡をたどる人生よりも、自らがレールの先頭を走る楽しさ、その高揚感は例えようもない。

 大切なものは目に見えない。目に見えるものに頼りすぎると形式ばかりが気になる。だから仕事も遊びも無目的で生きてみたい。何かのためではなく。

(2012年1月31日 本稿脱稿後 パナソニックの赤字決算が報道された。魂を込めた日本のモノづくりに希望をつなぎたい)

 

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