「涼」〜夏の風吹き抜けて「涼」に至る境地、まことに涼し〜

夏場のエコスタイルを始めて数年になる。
ネクタイをしないことは生産的な仕事をするうえで気持ちがいい。
ところが、困ったことに夏でも上着を欠かすことができないでいる。

事務所では、エアコンも扇風機も使わない。
といっても、まちなかで風が通るような場所ではないので、
うちわと扇子を使っている。
それでも汗が出るが、
それは夏と人間の「契約」だと思っている。



問題は、夏に順応した身体でよそを訪問すると「寒い」のだ。
奨励されている28度℃であれば良いが、
大概はエアコンが効き過ぎで、ふと設定を見ると20度℃であったりする。

講演会や研修で腕組みをして腕をさすっている女性がいたら、
エアコンの設定を確認する(場合によってはエアコンをしばらく停止させる)。
オフィスで常駐する女性は冷え性に悩み、
新陳代謝が乱れて不眠の原因にもなるので
夏こそ身体を保温する毛布が欠かせない。矛盾する話である。

エアコンの温度設定の決まりがあったとしても、
メタボ中高年の男性幹部が「暑い」を連発して
設定温度を下げてしまうことはありえる。
温度が低すぎるのは公的機関、公共施設や公共交通でも出くわす。

夏の四国内の特急列車は寒いことがあり、
(真夏なのに)駅で停車する合間の日光浴が心地よい。
車掌に伝えると温度設定を変えてはくれるが、
しばらくすると、今度は「暑い」とクレームを入れる客が必ず出てくる。
夏に順応すると上着が手放せなくなるという困った世の中、
どうすればいいんだろう?

汗がにじみでる。
自分の肉体が脳を介して周囲の環境と相互作用した結果である。
回りくどい言い方をしたが、生きている実感がある。
自分の身体やまわりの人たち、環境に対して感謝の気持ちさえ湧いてくる。

夏は山の水辺に行ってみよう。
徳島市内からだと、
上勝町(勝浦川)、神山町(鮎喰川)、穴吹町(穴吹川)がおすすめだ。
何種類からのセミが入り交じる蝉時雨、
ヤ行のまろやかな音を響かせる流れ、
草むらの虫の声、蜂の羽音、風にすれる樹木の葉…。


(上勝町を流れる旭川=勝浦川上流の支流)

これらが空気の厚みのなかに閉じ込められた
「夏の山沿いの水辺パッケージ」の体験料は無料だけれど
贅沢なひとときを与えてくれる。

それを身体記憶に取り込んだら、いつでもそれを取り出して「浸る」ことができる。
この世はすべて意識の産物と自然科学も宗教も哲学も主張する。

打ち水、鹿威し(ししおどし)、添水(そうず)、つくばい、風鈴、簾(すだれ)、
しじら(凹凸のある繊維のシワの肌触り感が涼しい)、
抹茶、玉露(よしずと藁で日光を遮る栽培法が涼しさを連想)、夏の和菓子、
麦わら帽子(部屋に置かれていると風渡る草原に夏服の少女が連想される)、
竹と笹の素材でできたもの…。
涼しさに思いが連なっていく。

そう、夏の暑さに対して古の日本人はすばらしい知恵を生み出している。
知恵という言葉には、
「足を知る」という言葉が含まれているかもしれない。
夏をありのままに受け止めるしなやかな感性があれば、
暑い夏を楽しめるのだ。


写真の京扇子は、柿渋、煤竹(すすたけ)、和紙といった自然素材を
京都の職人が二十工程をかけて組み上げたもので、
竹の飴色の光沢に憧れさえ感じる。
絵柄は漆で描いたほのかな蛍という構図で、
闇夜にたゆたうようで奥ゆかしい。
職人によって微妙な手調整がなされた扇子は「ため」があり、
曲線を描きながらしっかりとたためる。



これが職人芸だろう。
柿渋を塗った渋扇は長持ちする実用品である。
しかも、この扇子、あおぐと香り立つ(香のようないい匂い)。

この扇子をおさめる袋は大島紬を選んだ。
大島紬は奄美大島の特産品で絹糸を泥染めしたものだが、
手織りで亀甲の模様に丹念に織り上げている。
その風合いが海のように深い。
身も心も軽やかに夏の風吹き抜けて「涼」に至る境地、
まことに涼し。

涼しくなれば茶で和もう。
冷たい2リットル飲料をがぶ飲みする人もいるかもしれないが、
暑いときこそ、内臓を冷やさない心がけが必要。
夏を乗り切るために、
いや、長い人生を乗り切るための
ほんの少しの心がけが人生の貯金箱に貯えられ、
思いのままに生きる原動力となる。

さて、抹茶(薄茶)をいただこう。
茶碗は陶器専門店で790円で売っていた小振りの飯茶碗を見立てた
(専門の道具ではないが、これが使えると見た)。

何度か点てていると、どうすればおいしくなるかわかってくる。
知識や経験ではなく、感性と洞察力に基づく試行錯誤。
抹茶の量、湯の温度と量、茶筅の使い方、
そして茶を点てることに「魂を込める」ことだろう。
うまい茶を点てようとする気負いさえ消え、
夏の水辺を心に描きながら無心に茶筅を振るう。



茶を習ったことはないので流儀はわからないが、
夏の茶をおいしくいただくために、
自ずと所作がその人なりに決まってくる。
細心の注意を込めて大胆に見切り、
肩の力が抜けて自ずと身体がふわっと動いて茶碗が着地する、
とでも言おうか。
泡の小宇宙が咽を駆け抜けていくと、涼しさ、極まる。



写真は高知県西南部の風景である。
小さな川に少し手を入れて
子どもが遊べる天然プール状になっている
(生態系に何の影響もなさそうである)。

日傘の下では地域の大人が交替で見守る。
地元の人しか知らない秘密の水遊び場。
この川は水澄んだまま、海に辿り着く。

もし、吉野川、那賀川にダムがなく、
源流の水がそのまま海まで届けられたらどんなにかすばらしいだろう。
戻らぬ時間と郷愁を思うと切なくも涼しい。
そんな心象風景である。

  

▲戻る
Copyright(c) Soratoumi, All rights reserved