生活力〜(地球最後の日まで)したいことを自然体で続ける
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生活力とは、収入の絶対額ではなく、収入に依存しないでやりたいことをやる能力だと思う。例えお金があっても、自分で料理をつくれない、掃除ができない(習慣がない)、身の回りの日常的な作業がてきぱきとこなせない。そうしたこともお金があれば他人にやってもらうこともできるけど、それは生活力ではない。 あるいは、やりたいことをやっていても、自分の経済力で自分のご飯が食べられなければそれは生活力ではない。その反対にご飯は食べられているが、一度きりしかない人生で、時間が逆に回ることはないこの世で、矛盾を感じて生きているのなら、いくら高収入でも生活力はない。なぜなら自分で自分のやりたい人生の絵を描けないんだから。 さりとて一昔前の成功哲学のように、成功することが目的となっている人生は虚しい。ポジティブシンキングを主張する人は、他人にもそれを強いていること、自分がストレスを蒔き散らかしていることに気付かない。成功しようと失敗しようと構わない。ただいまを生きるだけ。落ち込んだっていいじゃないか。その結果に自分が満足できるかどうかだけ。それが人に社会に評価されればさらにいいのだけれど。 勉強することが好きだ。机の上の勉強もそうでない勉強もあるけれど、勉強とは「習う」(真似る)ではなく、「学ぶ」(創造する)こと。高卒で独学で師匠も持たずやってきたぼくはそう感じた。学ぶことの楽しさは、無目的になったときかもしれない。これをこうして目標設定して…というとっかかりだと窮屈。 例えば、ぼくにとっての英語の勉強は、疲れたときに、あるいは逆に気分がいいときに英語が無性にしゃべりたくなる、聞きたくなるもので、英語を学ぶことで癒されていた。無理やり机に向かわず、気持ちが乗ってきたときを見計らって勉強する。これが英会話スクールや留学だとそうはいかない。なぜなら学ぶことを強要される環境にあるから。したいときにしたいことをする。それが自然体で長続きする。だからぼくの学びには師匠がなかった。 いまのぼくは、自分のやりたいこと、社会が必要なこと、自分が生きていく収入源の三つがぴたりと一致している。ぼくが力を込めて取り組むほど、社会に貢献していて、しかも収入が正当な対価として増えるという実感。 なぜそんなに自分の生き方に自信が持てるんだ、少しは矛盾を感じるだろうと詰め寄る人もいるかもしれない。けれど少なくとも自分がやりたいことをやり尽くしていると感じているし、それがたまたま社会に貢献しているという感触がある。人がどう思おうと気にしない。もしかしてほんとうは自分が思うほど役に立っていないのかもしれない。でも、自分のなかでは納得できている。 ぼくの仕事、したいことには、営利の分野と非営利の分野がある。経営コンサルタントはもちろん営利。しかしこれは、相手先が費用対効果でメリットを感じるから対価を支払っていただける(ようにする)。むろんこれとて、目に見えない無形のソフトにどう納得していただくかでそれなりの苦労と実践はあるにしても。 営利と非営利の二面性は必ずある。どうしても営利に任せられない領域があって、それをNGOの活動として行っている。経済価値だけで見れば、活動収支はマイナスだ。 NGOではなく場合によってはNPOという声もある。しかしぼくは大切なのは組織の形態ではなく、「何をしたいか、何ができるか」だと思う。組織の目的が適切でそれに向かって適切なプロセスが組まれていれば、組織のカタチに関わらず目的を達成できるだろうと思う。無理にNPOである必然性はない。 先日講演会を開いた日本生態系協会の関さんの話を聴いていたら、環境政策をすべての政策の中心に置いてやっていく必然性をひしひしと感じた。しかし国会はおろか、地方議会でもそんな議論はきかない。不況を前に絵空事としか取られていない。議会や行政だけではなく、大多数の国民にとって、環境とは足長おじさんのように、生活に余裕のある人が行うボランティア行為であって自分に関係ないと思っている。 危機的な状況は、地球が危機的なことよりも、それが危機的な状況であることを知らない人が大多数を占めていること。だけどぼくは楽観も悲観もしない。ただ自分の信念に沿って淡々と日々の暮らしを綴りたい。明日地球がなくなろうとも、きょうの帳簿を付けて、明日の仕事の準備をし、電灯を消して好きな音楽を聴きながらいつものように感謝しながら日々を終えたい。ただそれだけ。できればパートナーがいればもっといいんだろうけど。 ▲戻る |