音楽の力をあなたにもあげたい

ベートーヴェンとモーツァルトは好きな作曲家だ。数ヶ月聴かないことはあっても、無性に聴きたくなることがある。それが五月であれば、窓を開け放ち風を取り入れながらベートーヴェンのピアノソナタ「田園」をバックハウスの演奏でかける。交響曲の「田園」でもいい。田園は、アバド/ウィーンフィルの磨かれた美しい演奏のCDをかけることが多いが、でもぼくの求める田園とは違う。もっと立体感のある、もっと素朴で、もっと歌のある演奏なのだが、そうなると往年のワルターの演奏が楽しい。カルロス・クライバーが「田園」をライブ録音したCDがあるらしい。ぜひ聴いてみたい。

秋なら、モーツァルトの「プラハ」交響曲を指揮のまねごとをしながら身体で感じてみる。木管のふくらみ、弦のざわめき、優美な旋律に一瞬崩れるような音階、すぐにさっと立ちこめる陽光の優美さ。これはモーツァルトのどの音楽にも感じられる特徴だけれど、ト短調の交響曲第40番、最後の交響曲「ジュピター」、いくつかのピアノ協奏曲(とりわけK595)、フルートとハープのための協奏曲をついつい取り出してしまう。CDでもいいが、レコードに針を落として聴くと空間のふくらみと実在感がなんとも言えない。

クルマを運転しているときにピアノソナタ「熱情」をかけるのはぼくぐらいか。けだるい夏の午後に聴くアンセルメ指揮の組曲「ペレアスとメリザンド」を聴くと、目を閉じて波の音がこだまする。

クラシック音楽というよりも好きな作曲家を聴く。現にマーラーは体質に合わない。聴いていて疲れる。でも「大地の歌」と第九は部分的にいいと思う。ブルックナーを聴くにはスローライフを満喫できる時間が欲しい。ブルックナーの第八交響曲のアダージョの楽章にもこの世のものとは思われない美しい時間があるが、そこへ行くまでもたない。ショパンよりも、ジョージ・ウィンストンのほうが身体にしみこむ。ストラヴィンスキーなら「春の祭典」と「ペトルーシュカ」が好き。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番については以前に書いたが人恋しくなる。フランスのドビュッシー、ラヴェル、フォーレについてはすべての作品を知っているわけではないが、カメラで光を追いかけているときは知らず知らず口ずさんでいる。指揮者でいえば、デュトワの音楽は細部がいきいきとしていて新鮮だ。断片的なドビュッシーの旋律や複雑に音が積み重なるラヴェルの管弦楽法を魔法のように紡いでくれる。

ギター音楽が好きになったのは中学の頃から。ヴィラ=ロボスの「5つの前奏曲」、バリアスの「大聖堂」、カタルーニュ民謡の「アメリカの遺言」、アルベニスの「グラナダ」などスペインに胸がときめいた。親父が「河野賢」「中出阪蔵」といった手工ギターを持っていた。ドイツ松の重厚な響きや軽やかな杉の単板の響きが耳に残っている。

いま好きなのは、日本の南西諸島の音楽。奄美大島では、朝崎郁恵、元ちとせ(インディーズ時代)、RIKKI(最近の数枚のアルバム)。沖縄〜八重山・宮古では、石嶺聡子、神谷千尋、KIRORO、嘉手苅林昌、知名定男、糸数カメ、ネーネーズ、古謝美佐子、大工哲弘、BIGIN、夏川りみ、大島保克、新良幸人(アコースティック・パーシャ)。まったく別の音楽のように思えるが、どの歌い手も個性がはっきりしていてその歌心に惹かれる。それにしても、なぜ南西諸島の島々には音楽があふれているのだろう。地球上から沖縄周辺の音楽がなくなってしまったらどんなに寂しいことだろう。

仕事の合間に我を忘れて浸る。音楽の力の大きさを感じながら、そこからもらった力でほかの人にも分けてあげたいと思わずにはいられない。

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