競争しない、させない?
秋というにはやや暑い季節。青い空の下で色とりどりの旗が四方八方へと山脈のように連なる校庭。きょうは小学校の運動会。なかでも徒競走は、どきどきする瞬間だ。一緒に走る面々を見ていると、自分の順位は予想がつくのだけれど、誰かが転倒するかもわからないし、一発勝負なので何が起こるかわからない。そのどきどき感がたまらない。

ところが、最近の小学校では、順位を付けない徒競走をやっているという。競うことは、動物(人間)の本能であり、競争を通じて仲間との闘いや協調を覚え、意思疎通を組み立てていくことだと思うのだが。

以前、小学校の総合学習の講師の依頼を受け、とある学校の授業を3時間行った。子どもを川で遊ばせるというもので、学校の近くに大きな川と、そこに注ぐ山から流れた谷川に足を運んでみよう、そうして何が違うのか、何を感じたかを教室に帰ってからグループで発表してもらおうという授業を考えた。大きな川は学校から歩いて5分、谷川は歩いて15分である。

「川で毎日泳ぐ人?」と手を挙げて聞いてみる。手が挙がらない。何と川で泳いではいけないことになっているのだという。なるほど、これは質問が悪かった。確かにぼくも中学の頃、川で泳いでいて女性警察官に「補導」されたことがある。そこは石積みの堰で、堰の急流にからだを預けるという遊び。

でも、ぼくたちは知っていた。堰から落ちた水は、縦回りの渦のようにくるくる回ること(ストッパーウェーブという)、上流から流れてきた葉っぱや木片がその流れにつかまってしばらく舞ったあと、なにかの拍子で縦波を抜け出してまた下流へ流れていくこと。

堰直下の水底も熟知していた。どこに杭があって(石積みなので木杭で補強している)、大岩があって、すり鉢状の水底とその水深がどのぐらいなのか、どのあたりから反転流(上流へ向かう水平方向の逆流。流れが弱いと休むことができるが、流れが強いと再び堰直下の落ち込みに持って行かれる)があるのか。

木の葉のようにもみくちゃにされながら、堰を下り、流れに任せてくるくると水中を散歩し、川に遊んでもらったあと、川が適当に放りだしてくれる、あるいはそろそろ息が続かないなと思ったら、自分を運ぶ水流から出ればいい(知っている人も多いと思うが、川底に運ばれたときがチャンス。水底がとっかかりとなる。り流れのなかの人は水に対して相対的だが、水底は絶対的な座標となる)。早い話が足で蹴るなり手で強く水を漕ぐなりして水流から抜けるのだ。

こうしたことを通じて、例えば誰かが溺れとき、どう対処すれば自分を危険にすることなく助けられるのか、川に落ち込んだときはどうすればいいのかなどを無意識にからだで覚えた。このことはとても大切だと思う。いくらプールですばやく泳げても、海や川はプールとは違う。水泳の達人でも溺れることがあるのは、自分の力を越えた環境に置かれた(=未知の経験をした)ときにパニックになるからだ。パニックになれば、背の立つ水深で溺死することもありうる。

先の縦波もその対処を知らなければ、無理にもがいて水を飲んだり、障害物に強打して怪我をする、気を失うなどで命を落とすこともありうるのだ。

実践を通じて会得する技術やコツを「経験知」という。それは座学(机上)の形式知を補い、役に立つ知識となるために避けて通れないものだと思う。しかし学校(塾や家庭も含めて)の教育では何かが欠落しているように思う。

競争しない徒競走の話に戻る。徒競走は、スタートの一瞬に神経をとぎすませ、抜きつ抜かれつの短い時間にさまざまな判断を下し、からだを順応させ、意のままに動かそうとすること。まさに、脳と心とからだが三位一体となった高度な実践である。

ところが競争でない徒競走だと、運動という経験を通していても、どこかゲームのような感覚、あるいはリセットがきくような実体験とでもいうのか、体験を伴いながら実のない体験という気がする。こうして表面的には波風は立たないでコミュニケーションは進んでいく。

けれども、競争を通じて知るさまざまな感情の動きとそれを克服する自律はどうだろう。勝つための試練に勝つ、つまり自分自身との闘いを制するたくましさ、全力でぶつかった達成感、結果がどうであってもそれを受け止めるしなやかさ、敗者に対する思いやりなどを無意識に心とからだに刻んでいくのではないだろうか。

もっといえば、競争することは、結果よりも過程が大切なんだと身を持って知る機会ではないだろうか。


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