計画する、決めることを決める、あとは変化を楽しむ 「あまかし君はこのところテレビや新聞を見ていてどう思う?」とそらと君に尋ねられた。ぼくはしばらく考えていた。するとそらと君が口火を切った。 時代は急激に変化している。過去の成功パターンは通用せず、かつてカリスマといわれた経営者たちが自らを変えることなく落ちぶれていく。 安定していると思われる公務員とて数年後はわからない。国は実質的に財政破たんをし、年々予算は削られていく状況で、地域のボランティアやNPOに活動を委託する場面が増えてきた。それは悪いことではないが、行政からみれば裏の事情もある。またそれに目を付けて、行政から委託されることを目的に、つまり理念なき活動をしているNPOが増えているように思う。 ともあれ、近い将来、公務員とて法令の改正で身分の保証をすることなく人員削減の対象になることは間違いない。それがすべてではないが、企業の再生を請け負ってきたぼくの感覚からは、まずは内部の行政機構から改革していくことになる。それには、人件費(人員ないしは人数あるいは両方)の削減が最初に来る不可欠の対策となる。三位一体の改革などは現象のみに目を向けた表面的な変化で、根本の原因を直視していない。だから方向性が的はずれでほとんど効果がない。こういう時代は、自然環境を復元させる絶好の機会となるはずだが、それも試みられていない。小泉改革は後の時代に、国の破たんの直接の引き金となった悪政と評価されることになると思う。 現実的に施設更新等の予算がなくなる十数年後、あちこちの公共建造物は地域の人たちのボランティアなどで維持修繕していくことになる。しかし例えば、老朽化した橋の補強工事など、大型の重機などの設備が必要となる場面が少なくない。公共事業の減少で転廃業を余儀なくされる土木建設業が続出するなかで、そこから機械設備を安価に譲り受けて地域でのこうした修繕を請け負う土木建設のメンテナンスを主目的とするNPOが出てくることが予想される。そんな時代を迎えているのだが、いっこうに国民に危機感がない。国が破たんすることよりも、滅び行く運命になんの疑問も持たず、自分たちの日々の暮らしだけに追われる人たちが多いことに対し危機感を覚える。 「なるほど。では、そらと君はどうしたらいいと思うんだい?」 ぼくの問いかけに対し、そらと君は長い演説を打った。ぼくには書きとめられないので、そらと君が個人の生活について触れた部分だけお伝えしよう。 ぼくは高校を卒業してからずっと独学で勉強を続けている。そしていくつかの領域で四国〜徳島に新しい境地を切り開いてきたと思う。自分で言うと嫌みだが、レールの上を歩かない人生の強みと思う。 この仕事(コンサルタント)で生計を立てる人がいなかった数年前に、ぼくは耕されていない土地が地平線のかなたまで広がっていると感じた。その後、さらにその領域を拡げて、農業や地域づくりにまで発言するようになった。仕事の範囲を開拓していったんだ。 このブログでも登場してもらおうと考えているけど、お陰でさまざまな人たちとのつながりができた。危機感を持った人たちの意識はほとんど同じ。確かに手法は違うし、一人ひとり得意な分野は違うけど、大筋では同じ。つまり、適切な規模の地域で独立して運営していく地域国家的な行政のしくみが必要ということ。そこでは、地域の人たちが自立(&自律)して生きていくことになる。そこが人が活きる場となり、地域が活性化し、地域固有の資源、自然環境も健全に保たれる…という絵を描いている。 では、個人のくらしはどうするのか。ぼくは、「しなければならない」と「したい」の両面から答えを探りたい。「しなければならない」は心理学的にはあまりいい意味で捉えられていていない。けれども、もしそうしなければ、誰かがやらなければどうするという意気込みで何かを行うとき、つまり使命感を帯びてひとが動くとき、それは強いよね。仕事や人生においては、「したくないけど、しなければならない」と考えている人たちが圧倒的に多い。こないだも仕事でブレーンストーミングと懇親会に参加したけど、「接待ゴルフはできればしたくない」といいながら、愛想笑いで参加している人たちを見た。それが普通なんだけどね。 でも、この世に生きる時間は限られている。しかも誰にでも等しく与えられているし、過ぎた時間を戻すことはできない。だから時間はもっとも貴重な資源だね。で、ぼくは行動の動機を重視したい。前述のブレーンストーミングだって、ぼくは(仕事なんだけど)「出たい」と思って参加した。したいことをやっていく人生の楽な面に注目してほしい。朝、起きるのはちっとも嫌じゃないし、むしろ楽しみ。夜寝るときは、心から感謝の気持ちを口に出して言う。日々の仕事やくらしの営みはどんなに地道であっても積み重ねるだけ。 幸いぼくの仕事はさまざまな人たちに評価されているみたいだけど、それとて仕事にしがみつこうとは思わない。好きだから、天職と感じているからやっているだけ。でも、ほかにやりたいことができればそっちをやる。それでいい。正しいとか誤りとかは自分が決めればいいのだけれど、ひとつ言っておきたいのは、自分のやりたいこと、なりたいことに変化していくのがひとの自然な生き方だということ。それだけ。 変化しないほうが楽だと思う人もいるだろうけど、それは変わっていくプロセス、こつこつと山を登る一歩一歩の動作の積み重ねで景色が変わっていく楽しさを知らないひとだろうね。高いところに進めば、いままで見えてこなかった景色が見えてくる。二階でいる人には三階からの眺めは想像でしかない。変化を怖れる人は、変わっていく時代というエスカレータで一生懸命自分は動いているんだけれど、実は同じ場所に必死にとどまっているだけなのかもしれない。動くエレベータ(時代)に流されまいとしがみつく人生、軽やかに舞い上がる人生のどちらを選ぶかはその人の自由。 もし明日に地球が滅びようと、ぼくはきょうするべきこと、例えば、帳簿や日誌を付けて、好きな音楽を聴きながら普段と同じように一日の終わりを迎えるだろうね。例え明日に地球が滅びようとも、ぼくはぼくの生き方をまっとうするだけ。そう思っているよ。 「わかったよ。で、そらと君の日々思うことはなに?」 計画すること、決める(意思決定)こと。それがすべてだよ。なんにもむずかしいことはない。決めるというのはね、何月何日に誰かに電話をすると決める。ガソリンを特売日に入れると予定に入れる。3日後の夕食は、その日の夕方においしい豆腐店の前を通るから湯豆腐にすると決める。こうしたことをスケジュールにどんどん書き込んでいく。 言い換えれば「決める」ことを決めること。この問題はいま決めないが、誰かの意見を参考にして三日後に決めると「決める」(意味わかる?)。意思決定のないリーダーに対して、誰も不安と不信を感じてついてこないから、管理職やプロジェクトリーダーの人は「決める」ことを実行しないとね。 「ささいなことでも決めることが意味があるの?」 どうでもいいことだからいつでもいいと思っているかもしれないけど、こうすると決めることが次々と決まっていくよね。こうしてどんどん不確定要素が少なくなっていく。生き方がシンプルになっていくということ。 「うーん、わかるような気がするけど、でもがんじがらめというか窮屈でない?」 むしろ逆だね。迷うこと、行動リストがどんどん埋まっていくと、空いた時間は自由に時間を使っていいということになるでしょ。もっといえば、同じことをやっても、人に決めてもらうと「させられる」。自分で決めると「している」となる。主体性が違うわけ。主体性というのは、「したい」に結びつくことだから、生き方が違ってくるということ。それに、人生は突発的なできごとや予期せぬ分岐点が現れたりする。そのときに不確定要素が少ないほうが対応力が高いと思うよ。抽象的でわかりにくいかもしれないけど、飛び込みの急な案件でも、どれだけ時間が空いているかがわかることで対応する範囲と深さが決まる。決まっている予定であっても、優先順位と期限を考えて変更はできる。その余地がわかるというのは、計画的に時間を予定できるから。 さらに付け加えると、日本の伝統芸能を見てもわかるように「型」があって、その型を自分のものにし、なおかつ消化(昇華)して変化させていくことで自由さ、その人ならではの個性、いきいきとした生命の躍動が感じられるようになるよね。それと同じだよ。型(計画)があるから、自由闊達(変化に対応、変化をつくりだす)にできるんだ。 「そらと君はどこでそんなことを勉強したの?」 さっきも言ったでしょ。独学。教科書には乗っていないようなぼくの生き方は試行錯誤のなかで見つけたんだ。実践こそ勉強。違う? ▲戻る |
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