花を知りたい


武士が向かい合う。殺気を感じてさっと身構える。そのとき相手方が「お主できるな」と思う。

テニスやバトミントンでサービスやスマッシュの態勢に入る。打つ前に「あっ、強そうだ」と思う。

好きな商品のブランドを聞く。「おっ、わかるな」と思う。

女性がいる。軽やかな所作に魅了される。その無意識のように見えて実は意識しての行為なのだけど、それを相手方がどこまで見破られるかという値踏み。

人は感性や五感を触覚のように伸ばして、そして相手方がどれだけその触覚に触れてくるか、届くことができるかを探っている。言ってみれば、相手に自らの奥深い技術(精神)を一瞬で伝える型のようなものだ。鈍感な人は相手の触覚が発する「こんなわたしです」という信号に気付かないし、相手の触覚に触れられていることさえ気付かない。

会わずとも文章からすでに相手の花が見えてしまう。花がない人はつまらない。感じていないのに花があるように見せようとする作為が感じられるし、花が咲いていないことさえ気付いていない鈍感さが漂っている。

若いときは濃厚に持っていた花が、いつのまにか年相応(いわゆる普通)になってしまった人は、花に気付かなかったのだ。あるいは花を磨くことの喜びを知らなかったのかもしれない。

花を磨くには努力が必要だけど、花を磨くこと(つまり努力すること)が目的になってしまっては自ずと花は消えていく。もっと無目的、もっと自在、もっと自由でおおらか。それでいて向かい合う真剣勝負。

人生で思い当たらないだろうか。儲けること、売上を上げることが目的の商売になっていないか。自分が楽しみ、その楽しむ自分をめでる人たちが集まってくる商売には限りない福がやってくる。自分が楽しいのは、人が喜ぶことに同化できるからであって、ひとりよがりの楽しさはちっとも楽しくない。

恋愛も同じ。礼儀や作法、容姿、経済力、精神力、目標と成果のバランス、循環する生き方、これらを自らの意思でみごとに織り上げると自ずから道は開ける。むしろ道のほうから寄ってくる。そのうえを歩いていけばいい。成就するかどうかという恋愛の結果さえ気にならなくなる。

センスが良い、筋がいいというのは、この触覚が発達している人。学歴や経歴で磨かれるものではないし、それを会得する教室や大学もない。それを持つ者がその存在に気付いて自分と向きあって磨き上げるとき、「花が咲いている」と感じる。年齢性別は関係ない。もう見抜かれていると思うけど、人生でめざすのは、「花を咲かせる」こと。それも年齢とともにみずみずしくも存在感のある花。

花とは微笑みだ。どこからともなくその人を取り囲むあでやかな空気感。それが分かり合う人が集まれば魂の喜ぶ瞬間となる。互いの花を感じあい自分の花も相手の花も愛でること。尽きることのない泉のような歓びが駆けめぐり、地位や名誉やお金、運命さえ軽々と越えてしまう。

花をもっと知りたい。

(2004年2月8日 16時48分)

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