有山麻衣子 幻のコンサート


 このCDは禁断の果実かもしれないと思った。録音が想像を絶する。ほかのCDを聴くと、どれを聴いても人工的に聞こえてしまう。具体的には、声が変声装置を通したかのような嫌な響きを、いままではハイファイ的と受け止めていたことに気付く。鮮明に息継ぎが感じられる録音では、「マイクの演出だった」と感じられ、ミキシングの過程で作り出された鮮度感を良い録音と勘違いしていたことを教えてくれる。大半の音楽CDは、人の声がCDに製品化されるまでどれだけの介在物があるかを暗に批判し、そのことに一石を投じたともいえる。

 大企業が優れた研究者を集めて巨額の研究開発を投じて製品化したものがあるとする。それに対し、ひとりの物好きな人が寝食を忘れて打ち込んだ(人生を賭けた)ものがあるとする。そうしたアマチュアの作品は、外観はあか抜けず、性能は大企業に及ばない。けれど、その品物が実際に使われたときに、ああ、なんていいんだろう、と思わせることが世の中にはときどきある。このCDは後者だ。

 人の声の生々しさが違う。こんな録音をプロの歌手は了承しないかもしれない。なぜなら自分の技術が再生装置を通じて白日の下にさらされそうだから。とはいえ、一聴してわかるような鮮明感とは違う。むしろ鮮明度は低いように感じられるかもしれない。声を聴いているのだが、それを意識させない。声とホールが一体となった響きを聴いている感じ。誇張感がなくすっと溶け込んでいる。マイクがあって、ミキサーがあって、サンプリングが行われて(中略)そして再生装置があるとすれば、そのプロセスが消え、まだ見ぬ有山麻衣子という歌手との距離がなくなった感じ。

 伴奏を付けるピアノがいい。一聴して離れて鳴っているようのでぼやけて聴こえるかもしれないが、ピアノにマイクを突っ込んだような音ではなく、ホールの残響はある程度伝えながら、楽器の残響には埋もれることなくタッチそのものは正確に伝えるといった録音で、ピアノソロの録音でもこんな感じで録ってもらえるとうれしい。もしかして大多数の人はその真価がわからないかもしれない。でも、これぐらい録音に気を遣ってくれたらどんなにか音楽が親密に感じられることだろう。

 一部の人たちからこのCDはオーディオ装置の質を問う試金石とまで言われているので、決して高価でないぼくのオーディオ装置を記す。
 主力は、プリメインアンプ オンキョーA-1VL+CDプレーヤーC-1VLをテーブルタップを介さずそれぞれACコンセントに直接接続。スピーカーケーブル江川三郎氏特性の捻り線1メートル×2本でスピーカーのビクターSX-V1に接続。部屋は鉄筋コンクリートの12畳の洋室で、スピーカー背面から壁までの距離は約1メートルと離し、スピーカーとの距離も約1メートル。スピーカーの後ろの空間を大切にし、スピーカーには伸び伸びと後方までもうたわせているけれど、スピーカーの後ろは通れるので、オーディオのために生活空間を犠牲にしているわけではない。

 もう一組は、プリメインアンプ ビクターAX-V1+CDプレーヤ ビクターCL-V1をケーブル長さ70センチでパイオニアピュアモルトスピーカーS-A4SPT-PMに接続。部屋は約15坪で防音仕様のややライブな音響。

 国産の巨大なプリメインアンプが肌に合わないので、小型の中級プリメインを使っている。国産のハイエンドオーティオ装置といえば高剛性、高精度、重量級だが、それらによって迫力めいたハイファイ感(威嚇感)は増しているかもしれないが、音楽のエネルギーは不自然に抑圧された感じがしてかえって音楽をつまらなくしているように感じられる。国産でもぼくが使っているビクター、オンキョーの小型プリメインアンプは音楽の抑揚や温度感がこうした大型機よりも優れているように思えるのだが。

 このCDを聴くためにシステムを構築するとしたら、フォステクスの新製品G1300または、クリプトンのKX-3で鳴らしてみたい。ともに国産品だが、B&Wなどの海外製品でなければと思っている人たちに聴いていただきたいスピーカーだ。
 前者は、NHKモニターの系譜につながる新技術を搭載した意欲的な製品で、スピーカーの存在を忘れる忠実な再生。後者はあのビクターの銘機SX-3の開発者による伝統的な素材のピュアシルクツィーターとクルトミュラーコーンを理想的に設計した音楽を楽しむ作品。
 アンプは、前述のオンキョーでもいいが、海外製ならトライゴンのプリメイン、あるいは白雪姫と小人の愛称を持つ同社の小型セパレート。CDは専用プレーヤー(SACDと兼用でないもの)で適当なもの。安くないけれど、音楽を楽しむために買えない価格でもない。

 1万円前後のアクティブスピーカーソニーSRS-Z1とソニーCDウォークマンでも試してみた。それでも魅力は伝わってくる。どうやらオーディオ装置ではなく、聴く人の感性+小さくても虚飾を排したシンプルな装置が試金石になっているのではないかと思える。
 ただ、このCDがいい音で聞こえないという人が少なくないらしいので、その原因を考えるとするなら、誇張感を取り去った純度が、ダイナミックレンジが狭く音質が良くない録音と紙一重に聞こえることがあるのか、あるいは、つくられた音場感に慣れてしまうと、介在物のない音質が物足りなく感じるのかもしれない。それでも隣の部屋で聴いてもわかる淀みないエネルギーの流れ(必要なときに有機的な音の流れがみずみずしくわき起こる感覚)はこのCDの世界感と思うけれど。

 以上が音質についての第一印象。続いて有山麻衣子の歌について。一部の意見では歌唱の技術的な問題や表現が平板などという指摘があるようだが、ぼくは気にならない。だれもが口ずさむ歌に人の温もりを吹き込むのだから不自然でない歌唱の揺れに神経を尖らせる必要はないように思う(「不自然でない」とは意図しない、表現のための表現ではなくての意味)。表情を付けることで唱歌の世界が箱庭リアルになってしまう(「箱庭リアル」とは、誰の心のなかにもある抽象的な思い出が歌手の表現を通して個人的な体験に置き換えられてしまうの意味)。

 それよりも、日本のあちこちで失われてしまった風土に思いをはせてみたい。
― メダカはいますか? それそも草の土手の小川がありますか? 
― コオロギの鳴き声は自宅で聞こえますか?
― カブトムシは、デパートに棲んでいるという答える子どもが少なくないとか

 唱歌の世界がこの日本からすでに失われてしまったことの喪失感。それを取り戻すことが次代の子どもたちへの責務ではないのだろうか。
 仕事で疲れたときに「七つの子」をかける。有山麻衣子の自然な歌が部屋に満ちて、心のもやに光が射してくる。

 童謡と唱歌はうたうのがむずかしい。有名な歌手がテレビなどで軽妙に個性を発揮してうたうと歌手の表現の道具になってしまう。歌のうまい人(声楽出身者)が朗々と歌い上げたらもう興ざめ。歌にかける愛情そのものまで疑ってしまう。
 結局、曲に理解と愛情のある節度ある編曲で聴かせてくれる少年少女主体の清楚な合唱でしか聴けなかった。

 有山麻衣子は、壊れ物に触れるかのようなていねいにうたう。個性、表現と楽曲の持ち味をどう折り合いつけるかでは、「虫のこゑ」がうまくいっている。虫の声音を虫が人の心を持ってささやくようにうたう。これはうまいと思う。「海」では控えめに歌っているけれど、さりげなさすぎて楽曲の持つ特性が伝わってこない。
 それに対し、後半に位置する「マリアの子守歌」、モーツァルトのアリア、フォーレのレクイエム、オーヴェルニュの歌などのクラシックは伸び伸びうたっている。「バイレロ」はダウラツのアナログレコードを持っているけれど、管弦ではなくピアノが素朴な歌声に響きあうのは心地よい。

 こんなCDが二千円程度で買えるなんて関係者の意気込みに拍手。でも初めての試みなので、不慣れなところや次はこうしたいという思いもあるだろう。有山麻衣子さんには唱歌の第二弾を期待したい。

有山麻衣子は、HMVオンラインで購入しているようだ(アマゾンでは取り扱いなし)



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