白保の唄者(うたしゃ)と八重山の音楽

白保は、開けた石垣島のなかにあって昔ながらの集落の雰囲気がある。その白保には若い八重山の唄い手たちがいる。那覇や大阪に活動の拠点を移していても心のなかには無意識に白保の海があるようだ。そんな大島保克、新良幸人(あらゆきと)を聞いてみてはどうだろう。しっとりと小節をふるわせる大島、豪快でうねるような新良。どちらもいい。

八重山民謡は沖縄民謡とは異なる。ぼくは十数年前にキングレコードから発売された「南海の音楽〜八重山・宮古」を聴いて以来、八重山に行きたいと思い続けた。あれから十数年、ようやく念願がかなった。


なぜすぐに行かなかったのか。若い頃は遠いところに憧れる。二十代には南太平洋ポリネシアをひとつきかけて旅したことがある。あのときも世界の民族音楽を集めたマニア垂涎のノンサッチレーベルから発売されていた「南太平洋の島々の音楽」(名盤と思う)を聴いてどうしても南太平洋へ行きたくなったからだ(これは廉価版で発売されているのでぜひ手に入れて聴いてみたら)。音楽から南の島への憧れが高まった。徳島県出身の写真家、三好和義の「楽園」もそれに火を付けた。


八重山民謡を集めた先のキングレコードでは、大浜みねが無伴奏でうたう「月ぬ美しゃ」がいい。美しい声を響かそうとか、喉のこぶしを聴かせようといった細工はなく、あるがまま声が空間に放たれる。それは夕焼けを見ながらふと口をついて出たような感覚。それは、この唄が八重山の人にとって、内地の「赤とんぽ」や「子守唄」のような唄だからではないかと思う。

ぼくは三線の音があまり好きでない。あの音が鳴り出すと「八重山民謡」という伝統芸能が立ちこめる。暮らしのなかから立ちのぼる情念やかけあいのなかから生まれる自由な感情の遊び、日常のなかの非日常にすべてをかける刹那、悲しみを隠して明るく振る舞うがゆえの底知れぬ深み。そんな魂のうねるような八重山の唄を聴きたい。ところが三線の音が民謡調の演出となってお座敷芸能になってしまうような気がする。無伴奏の八重山民謡を聴きたい。

それとは対照に、シンセサイザーを伴奏に使いながら、さらに原曲の魅力が活かされることもある。人工の音源を伴奏にしながらも夢幻の魅力を再創造する。生の唄ばかりでは疲れることもある。泡盛を飲みながら浸りたいときには、ピアノやシンセサイザーで彩るのもゆったりしていい。

夏川りみ(アルバム「空の風景」)は、シンセサイザーを取り入れた編曲の妙が八重山民謡の良さを伝えてくれる。ストレートに歌う彼女の声は「なんていい曲なんだ」と思わせる。最新作の「沖縄の風」で収録されている新曲「海の彼方」も八重山言葉のアップテンポで心地よさは、絞りたてのシークワーサーだ。

大島保克は徳島にやってきたときに生で聴いた。アルバムも2枚持っている。なかでも最新作の「島時間」が好きだ。けれど「東ぬ渡」もいい。何度も繰り返し聴いて浸れる。八重山民謡も悪くないが、情感を込めて歌われるオリジナル曲がさらに好きだ。なつかしさを抱きしめたくなる。

新良幸人は骨太だ。伝統的な民謡調の声の出し方ではないが、生身の人間の存在感がある。そんななかでアコースティックな響きを取り入れたアルバム「月夜浜」を聴いてみてはどうだろう。「とぅばらーま」の掛け合いなど、かつての毛遊び(もあしび)の光景が浮かぶようだ。http://www.cosmos.ne.jp/~parsha/cd_page.html

新人のやなわらばーと、八重山ではないが沖縄の神谷千尋もそれぞれ別のページで紹介しておこう。

民謡歌手には民謡独特の節回しや媚びた高音、振り絞ったような歌い方があり、オペラ歌手にはオペラ独特の肥大化した唱法がある。それは声を楽器のように響かせる伝統的な歌唱法なのだが、その呪縛をふりほどき、八重山の音楽を再構築して提示してみせる。それがうたの生命力につながる。

時代とともに、表現とともに、うたは姿を変えていく。三線を使っても弾き方によってはありきたりの殻を打ち破ることができるのではないか。歌い手と対峙するぐらいの気迫の三線なら聴いてみたい。そこで生まれ育った人にとっては空気のような存在の三線も、ヤマトから見て物珍しい沖縄調に逃げ込んだとしか思えないこともある。

八重山の祖先が暮らしのなかから絞り出した音楽は、華麗な三線の化粧を施しても、シンセサイザーでくるまれてもうたの生命力は失われることはない。でも破壊と創造は紙一重。ときには唄者は壊すことを楽しんでみる。伝統の衣をはぎとることで本来のうたの力が現れるかもしれない。八重山民謡は、八重山芸能でなく、まずは人間の唄なのだ。


△戻る
Copyright(c) Soratoumi, All rights reserved