WEBに感じることその3〜宇多田ヒカル

 宇多田ヒカルのアルバム売上が800万枚を突破した。シングルも合わせると、国民10人に1人が買った計算になる。なぜこんなに多くの人に支持されたのだろう。

 個性化、多様性と言われながら「売れているものが良いモノ」という信仰にも似た価値観。黒髪が似合う人でも茶髪。足を挫いても厚底。携帯で匿名のメルトモ探し。そんな「集団的個性・個人的無個性」の若者たち(どこか違うような気がするんだけど---)。情報量が圧倒的に増えているのに、自分の手で情報を探し判断しようとしない。18歳の頃、大学に行かない代わりに一生かかって独学で生きた勉強を続ける道を選んだぼくには信じられない。

 東芝EMIがアップしているヒカルのホームページが人気だ。そこに彼女が日々の雑感を綴るサイトがある。ある日の書き込みで、才能には音楽やスポーツなど「追求しなければならない」才能と、すごく素敵な笑顔をしたり周りの人を幸せな気分にさせちゃうような追求しない才能があるとヒカルは書いている。才能に行き詰まりを感じる人は、自分の才能を追求する壺にはまっているからとも言う(微妙なニュアンスはぜひ原文で。もちろん彼女がどの才能に重きを置いているのか明らか)。殺人的スケジュールの合間を縫ってモバイルで発信されるメッセージは、観念の産物ではなくあくまで直感---この人は悟っている。自力で修行した行者や宗教教祖のように観念の世界に陥りやすい人間の限界をさらりと提示する。

 ぼくなりに彼女のメッセージを判断すれば、自らの責任で生きていこうよと呼びかけているようにも思える。いっそ彼女には「ヒッキー党」を立ち上げて、この国の首相をやってもらいたい、などと考えるのは変化球だとしても、腐った利権社会をうち破れるのは、彼女のような実感を持った人々の共感がうねりとなったときだろう。

 ヒカルの歌声は20キロヘルツを越える高周波(超音波)を多く含んでおり、それが癒しの作用を持つ(超高域を切り捨てたMDは論外だし、現行CDよりもっと高い周波数で標本化するフォーマットが必要。それなら量子化しないアナログレコードという手もある)。聴く人に不思議な余韻を残すのはそのためかもしれない。

 ヒカルの顔は同世代の誰よりも日本人的であり、日本人としてのアイデンティティ、いわば日本的なものを超越した日本を持つヒカルは、長者番付に顔を出しても、アメリカの大学生活はそのまま続けている。

 話題づくりのため本人のプロフィールを出さない、CMタイアップで露出機会を多くする、初回プレスを少なくして意図的に品切れを演出し購買意欲をかき立てる音楽事務所の戦略など、この業界のマーケティングは陳腐。そんななかでヒカルは光る。光っているのは、レッテルを貼られることのない普遍的な個性。

 一人勝ちしようとする企業は決して繁栄しない。売るテクニック「マーケティング」の時代は終わった。すべての情報を開示して生活者との信頼感を高めてファンクラブ化するしかない。大手ほど危機感が強いのは、既存システムをいったんご破算しての無からの構築(ゼロベース)が困難なこと、巨大組織とその内外でのコミュニケーションの困難さを知っているからだ。しかもいったん支持者が増えれば、WEBでは光の速さで登り詰めて勝敗が決する。生活者がWEBに漠然と感じている夢に思いをはせない感性は淘汰される。

 ヒカルには、周囲とコミュニケーションしながら自分を認めてもらうしなやかな生き方を感じる。彼女の活躍にWEB社会がもたらすひとつの可能性(=生活者主権)を見てしまうのはぼくだけだろうか。