「ワダツミの木」という曲を聴いたことがありますか?

 この歌を聴いていると、人を包んでいるベールをはぎ取って奥底に流れる血が沸き立つ感じ。ひとの奥深くには玉ねぎの芯のような生命力の根元が眠っていて、この歌はそこへするりとたどりついてしまう。

 歌い手の元(はじめ)ちとせは、奄美大島出身で幼い頃から島唄の名手と言われてきた。奄美の島唄は沖縄のそれと比べて日々の暮らしや冠婚葬祭などに密着しているといわれる。同じ癒し系の声といわれるエンヤに浮遊感はあっても引っ掛かってこない。ところが訥々と謡う元ちとせの声は引っ掛かっる。美声ではないけれど、淡々とうねるような声を聴いた人たちは世代を越えて涙を流す。喜納昌吉、りんけんバンド、ネーネーズ、キロロ、石嶺聡子らの名前が浮かぶが、なぜか南方系のアーティストたちだ。

 数年前に青森の三内丸山遺跡を訪れたとき、無造作に並べられていた埴輪を見て衝撃を受けた。日々の暮らしからぽつんと生み出された道具たちが数千年を経て造形の輝きを放っていた。

 日本人の二大潮流である骨太の縄文系の骨格と面長の弥生系の骨格では声の倍音の乗り方(可聴帯域を越えた超高域)や揺れ方が違うような気がする。20世紀の日本は弥生系のスマートな人たちが活躍したが、21世紀は土着の縄文系が癒しのかぎを握るのでは?余談だが、ぼくはちとせの歌を聴いて久しぶりに新しいアンプとスピーカーが欲しくなった。この声に心酔したいから、マランツの素っ気ない業務用アンプかFASTのトランジスタアンプでタイムドメイン理論の卵形スピーカー+村田製作所のセラミックツイータ、またはタオックの新製品のスピーカーを鳴らすなどと考えているけれど。

 もしかして、この歌、日本人の源流を突いたのではないか。「和」と接頭語が付くと、京都や奈良を頂点として様式化された家元や世襲で守られてきた保守的かつ耽美的な作法が頭に浮かぶ。しかしそれはうつせみから離れてしまった魂のない残骸で生命力が感じられない。

 「和」風がすたれても、日本人の根っこは失われていない。和の魂を呼び起こすのはふとしたきっかけ。若者が三味線に取り組んだり伝統芸能に形式にとらわれない表現でぶつかっていく姿もそう。和の心はもっとかたまりでもっと実在感があってもっとエネルギーにあふれているはず。エネルギーがなければ実態はない。実態のない虚構に癒しはない。

 和はほんとうに癒しだ。木、紙、土、布、水などの素材を柔構造にして風土に根付いた道具と暮らしの知恵。それらは人の暮らしや風の向き、土の匂い、水の流れなどと渾然一体となって日常のなかで息づいている。

 例えば、あかり障子とふすまで区切られた空間に佇む。障子の和紙がすずろに明るい。紙一枚で隔てた「向こう」と「こちら」はことさらに区切られてはいない。けれども、幾重にも空気を閉じ込めた和紙のとばりは光をはんなりと宿し、そのときの風に移ろい、水気を調えながら、そこはかとなく気配を映し出している。

 とある老舗の着物屋の新規顧客獲得のマーケティングに思いを巡らしている。縮小していく市場であっても、これまで着物に縁がなかった人たちの琴線に触れるメッセージを伝えていけば必ず道は拓ける。そのためにWebを使うけれどモノは売らない。さまざまな仕掛けを通じて生活感と生命力あふれる「和」を再定義する。

 →元ちとせの音楽について

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