「この世から良質のモノを消さないためにホンモノの価値を顔から顔へと伝える」


8年間使い続けたパソコンのディスプレイがちらつきがひどくなったので修理に出したところ、部品がなくて修理不能と返されてきた。いまどき買い替えずに修理する人など少ないのだろう。けれど、類似の商品はやはや販売されていない。

具体的に書くと、S社のブラックTFTという画質がなめらなかで文字が見やすく目が疲れにくい液晶パネルを使った製品(蛇足だが、S社のディスプレイがいいのではなく、S社の液晶パネルを使用したディスプレイのこと)。

S社は液晶テレビに経営資源を集中させ、競争が激しく値崩れしているパソコンディスプレイから撤退、数年前に販売中止となっている。WordやExcelを使うならこの液晶パネルを使った15インチ(解像度XGA)がもっとも目にやさしいと思われる。パソコン作業で目に悩みを抱える人は少なくない。目にやさしいディスプレイがあるのならお金に糸目を付けない。そう考える人は少なくないと思えるのだければ、そのニーズをかなえる商品はこの世から消えている。

世の中から消えたもの。音のいいラジオ。
昔はそれなりの出力のアンプと口径の大きなスピーカーや低音用、高音用を備えたラジオがあった。そしてツマミを回すなめらかで精緻な感触に操作する喜びがあった。農作業にいそしむ人たちには、電池で長持ちする音の良いラジオがあった。

良質のブラウン管テレビの画質は、画面に奥行き感があり、動きが自然で最新鋭の液晶テレビよりも完成度が高いと思う。いまのテレビは液晶やプラズマなど薄型になったためか、画面が明るく大きくなりコントラストが高い(これも目に悪い原因のような気がする)。
小さな部屋に大きなテレビが居座る家庭が増えてきたようだが、うちはいまだに15インチのブラウン管テレビ。購入時の金額は決して安くはなく、いまならフルハイビジョンの液晶テレビが買えてしまう。アナログの停波によってテレビが見られなくなる世帯が出てくるが、地上波デジタルはそのような犠牲を払ってまで人間の生活に必要なものなのだろうか?

景気対策(=選挙対策)と称して取って付けたような政策が次々と打ち出される。「ばらまき」と後ろ指をさされないよう理論武装をしていても、長期的に国をどうするのかという理念が見えない。低炭素国家をめざす、小さな政府をめざす、あるいは福祉の充実した国家をめざす、1億人が自らの事業を行う活発な経済活動を行う、生態系の価値を認め尊重する社会をめざす、などのような方向性を見出し、整合性を持って各論(施策、法律等)が支えていくしくみにならないものだろうか。

こんな考え方もありえる。国の基本理念に沿うものであることを前提に、夢を追いかけるプロジェクトを提示できないだろうか? 
例えば、「こんなプロジェクトをやりますので資金を提供してください」のような夢コンペをやってみたらどうだろう。
そこへ国民が自らの意思で資金を提供する。資金を集めるためには、生活者ニーズを見据えてわかりやすく、かつ感性
豊かなビジネスモデルをつくることである。

資金を出した国民は成功のために協力し、改善の提案を行い、進行状況についてのモニタリングも行う。国家運営にできるだけ大勢の人が関わるしくみはありえないのだろうか?

阿波の逸品の審査をしていると、山っ気たっぷりの商品のなかに、誠実につくられたホンモノの味わいを持つ製品がある。例えば、阿南の津山商店のみそと甘酒。なんの変哲もないパッケージだけれど、

一度食べると忘れられない。みそは毎日食べても飽きが来ない風味、甘酒はまろやかで米の滋味が口のなかにやわらかく広がる。また食べたくなる、毎日食べても飽きない、そんな味がする。いいモノづくりのためには、原料の米を自分たちのでていねいに育てて収穫する。その原料を使って家族がていねいにつくりこむ。そうしてできあがる風味の良さは量産品とはとても比べられない。

もう結論は出ている。価格ありきの大量生産品に対し、個人または小規模事業所が魂を込めてつくる製品は別物である(同じ土俵に載せるものではない)。

けれど、こうしたていねいなものづくりをしていても、量産品が形成する価格帯(相場)と比べられるために価格はそれなりに付けざるをえない。

こうした製品にていねいな説明を付けて、その価値がわかる人に情報発信をしていけたらいい。

それは事業所がやってもいいけれど、それを行うのがあきんどだろう。商店街の店ではそうした商品を発掘してきて消費者に伝えていく。ホンモノは大量生産できないから、郊外型SCや全国FCには供給できず、顔から顔へと伝えていく。
だからホンモノを扱うのは、理念を持った個人商店こそがふさわしい。それこそが一店逸品運動の使命であり、商店街の再生でもあり、後継者獲得に道をひらくことにつながる。

企画力のある商店なら、自らが研究開発、試作、テストマーケティングを行い、製造を外注する。工場を持たないファブレス生産による自社ブランドの展開が考えられる。取り上げる分野としては、地元産を活用した食品が好適である。

例えば、大型店の競争に押されっぱなしの個人の電機屋さんがスイーツを開発して売り出すことも十分ありえる。白物家電に混ざって自店に並べるよりは、インターネットや百貨店の食品売場などで展開したい。近年の四国には「霧の森大福」のようなヒット商品がある。スイーツは女性の口コミ速度が早いため、大きく化ける可能性があるし収益性も悪くない。

つまり、地元産×情報発信×連携(外部資源活用。言い換えれば経営資源の選択と集中)の方程式によって、この不況を乗り切る方策はいくらでも考えられる。

目にやさしい液晶ディスプレイのような製品は、需要が少ないから生産が打ち切られたからではなく、売り手がその有用性を伝えることをしなかったからではないかと考える。

その反面、より大きく、よりくっきりと(店頭で画質が目立つということ)、より安くを競い合ったために、ぎらぎらしてとても長時間見ていられないような粗悪ディスプレイばかりが店頭に並ぶようになったのだろう。多くのユーザーは店頭のアピールに眩惑されて買ったものの、自宅で使ってみると「ああ、なんて目が疲れるんだろう」(あるいは目が疲れていることさえ気付かないほど視力が低下しているかも)と嘆くことになる。

目にやさしいディスプレイは全滅したのではなく、実は生き残った製品もある。現状で目にやさしいディスプレイを買うとすると、19インチ〜21インチ程度で「日立の液晶パネルを採用した」(日立のディスプレイという意味ではない)10数万円の製品ぐらいしかない。本体が小さくて邪魔にならず、けれど文字が大きくて見やすい良質の15インチXGAは中古でしか存在しない。

売上拡大の論理は地球の経済と整合しなくなってきた、というと言い過ぎだろうか。理念を啓発していく経営が安定成長のカギであることは疑う余地もない。

2008年12月、徳島市内で朝市を行ったところ、3千人でにぎわった。身近な生活圏内において、時代に翻弄されることなくホンモノの商品に出会えるとしたら、商店街が見直されることを示唆しているのではないだろうか。一店逸品運動はそのきっかけとなる。高い理想を掲げて地道に歩む商店街が現れてくれればいい。

 

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