中心市街地の再生に徳島の未来がある


 徳島でオーケストラなどのアコースティックな楽器の音楽会が開かれるのは楽しみだ。ぼくがかつて徳島で聴いた演奏会では、オーケストラ・アンサンブル金沢のモーツァルト、クリスチャン・ツィマーマンのピアノが良かった記憶がある。

 音楽を聴くとなると、ホールは重要だ。行ったことはないが、ウィーンフィルの本拠地ムジークフェラインザールは夢のような残響があるという。徳島ではこれまで響きの良いホールはなかった。まちでは、耳障りなシャカシャカ音が溢れ、大音量でテレビを付けっぱなしにしている家庭も少なくない。ホンモノの音に接することは意味があるように思う。
 
 新町西地区で音楽ホール建設の計画が持ち上がっている。この事業では、高層マンション、立体駐車場、商業集積の複合的な整備も予定されているらしい。

 かつて東新町には丸新デパートとダイエーがあり、日曜日に連れていってもらうのが楽しみだった。あの頃のアーケードは人で賑わい、よそ行きで出かける典型的なハレの日を過ごす場所だった。ところが近年は核店舗の撤退、郊外型大型店の進出などで通行量が激減し、いまでは週末の通行量が平日より少ないという結果も出ていたようだ。

 そんななかで、この新町西地区の再開発には地元の期待が高まる。音楽会に行くとしてクルマの駐車場に困る。渋滞で時間に遅れることもあるかもしれない。ところが新町地区なら、JRやバスの利便性が良いため、公共交通が利用できる。

 ゴア前副大統領の著書「不都合な真実」をお読みになられただろうか? 地球温暖化の現実、そしてそれにどう立ち向かうかをわかりやすく示したもの。ぼくはできるだけ公共交通機関を利用するように心がけているし、まちを歩くことを楽しみにしている。クルマに乗るときは流れを乱さない範囲で省エネ運転を心がけている。発信やブレーキの踏むタイミングなどほんのわずかな心がけて燃費が伸びる。インプレッサというクルマに乗って6年になるが、この1年間の平均燃費は(渋滞が3割程度ある)アクセルコントロールだけで14キロメートル/リットルを上回った。クルマは必要悪であり、負の側面から目を反らしたくない。中心市街地に音楽ホールを持ってくることは、公共交通機関の利用が促進されCO2排出抑制につながる。

 新町地区には、水際公園などの憩いの施設やパラソルショップなどの仕掛けがあるが、まちの魅力を高めるようなソフトをどんどん発信していきたい。

 商店街が遊山箱に取り組んでいるのもいい。遊山箱は、徳島の大人たちがなつかしく振り返ることができるものだが、他県では「ゆさんばこ」と読むことすらできない固有の文化。その遊山箱を通じて人々が語り合う場を地元商店街が提供しようという試みがある。遊山箱に光を当てた武庫川女子大の三宅先生は「遊山箱に詰められていたのは思い出」といわれる。遊山箱から人々の心がひとつにまとまり、中心市街地の活性化についての議論と参画が深まることを期待している。

 中心市街地にはさまざまな歴史やたどってきた過程がある。これからもその魅力をそこに住んでいる人たちが参加し、みんなで知恵を汗を出して高め合う。そのようなまちづくりになれば、これまでのハコモノ開発とはひと味違ったすばらしいものになるだろう(同じハコなら遊山箱で)。

 折りしも国は中心市街地活性化をコンパクトシティという概念で支援しようとしている。文化施設や商業施設、病院、診療所などの福利施設が中心部にまとまり、歩いて利用できるまちは環境負荷も少ない。そんな都市整備のため、国の支援を得て3〜5年という短い期間で大きな方向性(ハード整備)を行い、数十年をかけて市民の手でソフトなまちづくりを進めていく。そのために多様な市民や団体の参画を得て中心市街地活性化協議会という組織を立ち上げ、徳島市の基本計画を国が認定するという手続きに入るのも方策である。

 郊外の大型店には人々が積み上げてきた文化がない。全国どこでも同じような店舗と業種が立ち並ぶロードサイドには、地元の老舗や地元産品もなければ、商店主と子どもが育んできた社会との関係もない。

 郊外型大型店は地域の購買力が飽和していることを承知での出店である。中心市街地では衰退の過程で生鮮食料品店などの業種の不足が生じているものの、市内全体として商業床面積が過剰となっていると考えられるため、大型店同士の競合が激しくなっている。それに破れた店舗は撤退してスクラップとなる。

 このまま郊外にまちが拡散し続けると「もっと道路を整備しよう」「こちらにも施設を」の悪循環で自治体は破たんし、メダカの住む小川やタガメのいる田んぼはなくなり、子どもは自然のなかで遊ぶことを忘れ、自然破壊と農業崩壊で気がつくと取り返しの付かない国土となる。中心市街地の再生と周辺農村の再生は同義語と捉えることが必要である(中心市街地で周辺農村で朝採れたばかりの野菜が生産者から直接買えるとうれしいし、下流の人たちが森林を守る資金や労力を税金や出資などのかたちで上流に提供できれば流域共生圏に発展していく)。

 クルマで移動しなければならないまちでは二酸化炭素排出を抑制できないばかりか、公共交通が衰退する。車社会のなかで公共交通網をどのように整備するか、維持していくかが課題となろう。交通弱者は、排気ガスと危険にさらされながら車道の片隅を歩かなければならない。少子高齢化が進展するなかで、ほんとうにそれでいいのですか?と問いかけたい。

 歩いて暮らせるまちづくりは、ウェルネス(メタボリック症候群やストレス軽減)にも役立つ。中心市街地には、学生やシニアなどの商店街ボランティアが活動して来訪者とのコミュニケーションを深め、商店街は総合学習の場にも提供され、大人たちとの会話のなかで子どもは社会性を会得していく。こうした成果はCATVやインターネットを通じて地域に発信され、そこにアイデアや共感が集まって発展していく。

 まちかどには、オープンカフェ、掲示板、託児所、シルバー人材センター、足湯、ストリートパフォーマンスやアートの場、チャレンジショップ、ベンチなどが適当な間隔で設置され、まちの回遊性を高める。

 まちづくりの課題は合意形成だが、全員の合意を得ることは困難(=無意味)だから、やる気のある人がやればいい。そんな非公式な組織やグループの動きを、公式な組織が支援するかたちになれば動きやすい。人々が歩いて行き来するそんなまちづくりに期待したい。

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