はじけるよ。
東京の友人から弾む声で電話があった。年賀状は彼が川で撮った子どもをテーマにしたオリジナルカレンダーであったが、同封の文書には「今年は弾けようと思います」の文言があった。

現在30代の彼は、今もっとも充実した時間を過ごしているかもしれない。仕事と好きなことを両立していることもある。会社での遊休消化率は一番と豪語していた。限られた時間に全国の川で遊びまくるには、人脈を持っていてスケジュールと自己管理の達人でなければならないはず。そんな人が仕事ができないはずがないじゃないか。

それなのに、「もうぼくも40歳という年齢が見えてくるようになった。そう思ったとき、ほんとうに好きなことをもっとやりたいと思うんだ」とつぶやいた。

そう、人間は好きなことをやるために生きている。少なくとも、好きなことをやるために工夫し努力するのであって、そのプロセスが目的になってはつまらない。

仕事と遊びを分けるという考え方も違うと思う。だって、それならどちらかが我慢の時間になる。我慢することが生きることにとってもっとも有害だと思う。仕事こそ好きなことをやるべきでしょう。

元日に開かれた高校の同窓生を見ていて思った。年齢というさやに収まったように見える人はそれなりに時間の経過を感じさせる顔つきであり、姿勢なのだけれど、時間が止まったかのような、むしろずっと魅力的になっている人もいる。

フリーランスの物理学者と結婚した同級生の女の子と出会った

彼女とは高校時代、特に面識はなかったのだけれど、同窓会のあとインターネットで調べてみると、アメリカ留学中の姉と旅行中に姉の友人だった男性に出会ったことがきっかけらしい。時を経て彼とともに彼女の故郷に戻ってきたという。大学という組織に属さない彼がどれだけのことをなしえるのかぼくにはわからない。けれど、そのくらしは楽しいだろうなと想像させる。だって彼女は輝いて魅力的だったから。

東京の友人は村山嘉昭という。彼は酪農誌の専属カメラマンであるけれど、あちこちの雑誌にカワガキ(川で遊ぶ子ども)の写真を投稿し記事を書いている。ぼくは彼の写真は好きだ。画面から川遊びそのものが飛び出している。それは、彼が川が好きで好きでたまらないから。川の写真集をたくさん見てきたけれど、草いきれやせみしぐれとともに汗をかいた匂いが感じられるのは、村山嘉昭だけだ。

その彼が今年ははじけるのだと言う。そう、前々からカワガキの写真集を出すと言ってたけれど、それはもちろん実現するらしい。販売価格は千円台の前半に抑えるつもりだとも。それに加えて、移動写真展をやるのだ。

移動写真展とは…

これまでの写真展は、アフガニスタンを撮っても仏像を撮っても、その画面に打ちのめされるだけで、家に帰ればそれだけというよそよそしさが漂うことが多かった。それは、写真を撮る行為に付随するある種のストイックな精神(「すばらしいだろう」「努力をしなければ」「おまえにはできないだろう」というようなニュアンス)が感じられるからかもしれない。

ところが村山嘉昭は、川で写真展をするという。水中カメラで撮った子どもの写真は水に沈めておく。見上げるように撮った写真は、川の水面から少し高いところに背伸びをして見るようにする。そして写真の大半は、川のなかにじゃぶじゃぶ入って見てもらうという。

舞台は、徳島の場合、吉野川第十堰、穴吹川、海部川という全国区のエース級の川たち。でも、四国の川ははじめての人でもすんなりと受け容れ、遊ばせ癒してくれるんだから。ぜひ見においで。

現場で展示をすることに意義があるのではない。そうではないんだ。主催者と参加者、見る人、見られる人の垣根を取り払いたいんだ。その垣根は、川に対してこれまで傍観者であった人たち、川に溶け込めなかった人たち、川と遊ぶことを忘れていた人たちへの伝言「川と友だちになってみようよ」。実際、川には人のくらしのすべてがあるとぼくは思う。彼がカワガキを撮る意味(メッセージ)も同じだろう。そのうち、四国、徳島に移り住むことになるな、きっと。

うちの川でやって欲しいという人は、ぜひぼくに連絡をいただけると村山嘉昭につないでみるよ。

やりたいことをやり尽くしているか。いつも自問自答している人たちがいる。


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