三つの贅沢な時間
 起きる。カーテンをさっと引くと太陽が顔を照らす。好きな音楽を聴こうとアンプのスイッチを入れることもある。ビクターのマホガニー無垢にマウントされたシルクソフトドームのスピーカーが朝の空気に静かに鳴り出す。

 まず顔を洗う。そして一杯の水を流し込む。うまい。お茶を沸かして新聞を読む。そろそろ朝食の時間。ご飯とみそ汁と納豆と目玉焼きなんてメニューはいい。たまにはパンとコーヒーとシリアルも混ぜる。

 分刻みの仕事が始まる。ときには深夜まで続く。一日の終わりには、近所の田園地帯を1時間ばかり散策する。シャワーを浴びてふとんで大の字になり、感謝して終える。この繰り返し。でも、昨日と違うきょう、きょうと違う明日がきっと訪れる。

 ぼくはサラリーマンではない。幸いぼくを必要とする人は少なくないらしく、たくさんの人からさまざまな要件で声をかけていただく。仕事は全力で当たる。自分の利益と社会の利益に矛盾がないことの爽快感。さらに一種の使命感に駆られながらNGO活動、政治や行政への提言をする。あまりにやりたいことが多いのに時間はなぜか多くないのが悩み。

 お客さんから予定を変更してほしいと連絡がある。スケジュールの変更だ。でも「それで行かせていただきます」とは言わない。「それで行きます」と答える。なぜなら、お客様の利益になることを納得した瞬間に、「変更された」のではなく「変更した」と主語が変わるから。

 ぼくは、公演やパネルディスカッションのコーディネータが大好きだ。自信はありませんが…などといいながら周到に準備する。それでも当日の会場の雰囲気で臨機応変に変える。ぼくの話はすばらしい、そう思えない人がお金を取って話をしても、誰が楽しめるだろう。自分の存在を消すというか、第三者的に自分を見つめることができれば、自分を正当に評価することも自然体でできるようになる。

 今のぼくは10年前に種まきした果実を収穫している。もちろん今も種を蒔いているから、10年後には違う自分に逢える。30代後半にさしかかって独身だけれど、年を取る気がしない。といってぎらぎら野心が燃えているわけではない。静かに、けれど半世紀は輝く灯火を掲げて自らを照らしている。

 そんな合間を縫って小説を書く、四国の写真を撮る、川で遊ばせてもらう。これがぼくの三つの贅沢な時間の使い方。

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