ゆっくり学ぶ 無目的に学ぶ、そして生きる
地球環境、21世紀に生きるということを見つめ直すと、スローライフが普通になってきた。ぼくの周辺でも脱サラでIターンして農業すること(したいと思うこと)が珍しくなくなってきた。

企業の目的は存続していくことだけど、企業が半永続的に伸び続けることは不可能。伸びている企業は将来のリストラ候補者を増やしているともいえる。ということで、答えは自ずと出る。サラリーマンを続けていてもいずれはリストラされるということ。

いまの状況は、景気の循環(不況)と捉えるよりも構造的なものと考える人が多くなっている。ぼくもそう思う。このまま経済拡大に走る政策、経営を続けていれば、種の存続が危うくなる。それでもいいと考える人も少なくない。ほんとうに地球に必要な種が次の地球をもっとよくしてくれるだろうとの考え方もあるのだ。「このまま発展することはありえない」の悲観的観測から「発展しないことは不可欠。むしろいいことだ」との価値観へいつ地球人が転換できるか。

不況の理由は、価値観の転換ができないことを悲観的に思う人々の胸深くにある潜在意識が買い物や浪費にストップをかけているのではないか。公共事業の拡大や国債の乱発は、自民党や政府ばかりが悪いのではない。古い価値観の呪縛から逃れられない人々のあがきや願望がそうさせているのだ。

「あなたの国(会社)が存続できる時間が少しばかり長くなることはそれほど大切なことですか?」。もっと大きなもの、もっと大切なもの、もっとかけがえのないものがあるのではないか。

いずれ日本も十年以内に自給自足経済(地産地消、資源循環型経済などとさまざまな名前で呼ばれているが…)に移行していくことになる。食料やエネルギーの自給率が低い日本のような国において、それ以外の選択肢があるとは思えない。

だけど、これからの経営は真実楽しい。古い価値観を軽やかに脱却して、人がもっと活きるようなしくみをつくり、そこに共感してくる社員や生活者に囲まれるような経営にすればいい(理詰めの人には理解できないだろうがそんなにむずかしいこととは思えない)。ISO14000やITだけでは本質は解決しない。志、理念、共感が根底にあることが大前提。いまは細い流れかもしれないけど、社会の大河のなかにひとすじのほんものの流れがあり、それを選んで思い切って流されてみればいい。経営するとはそんな流れを選んであとは任せるだけ。そんな「無為の為」経営こそが未来を切り開くことができると信じている。

子どもの減少により、誰でも(競争なしに)大学に行ける時代が目前に迫っている。ぼくは勉強が好きだが大学へは行かなかった。勉強したいことが大学のカリキュラムになさそうだったし、大学で自分の勉強したいことが満たされると思えなかったし、なにより10代後半という多感な時季を大学入試に充てたくなかったから。なんてことを言っているが、これは今だから言えること。当時は公立の進学校で卒業時に400人中380番ぐらいだから自慢するようなことではない。

だけど、独学をする喜びことがからだに染みこんでしまっている。好きなときに好きな時間だけお金をかけずにのびのびやりたいから独学になってしまう。

リストラされたくないから何か勉強しなければと思う人は楽しくなさそう。せっかく生きているんだから仕事のためなんてつまらないこと考えず、やりたいことをやればいい(人生は一度だけ)。義務感でする勉強なんて楽しくないし身に付かない。家族やローンはどうなるんだ?との反論もあるだろうけど、それはあなたがこれまで自らの手で種を蒔いて育てる労を取らなかったから。今の社会の兆候が見えなかった自分自身に責任があるのであり、そんな政治を行う政党や、情報を公開せず住民の参画を排除してきた行政に対し、市民の一人として参画や提言を行わなかったことにも責任があるのではないか。

ぼくはこの二十年近、独学で勉強(実践)してきたことは、英語(日本語も含めた語学)、環境、写真、文章、天文学、天体物理学、経営学、マーケティング、WebとIT、家政学、心理学(コミュニケーション学)、オーケストラ指揮(音楽)、川と河川工学、地域づくり学、地元学、家政学、政治学など多岐に渡る。それがいまのコンサルタントとして、またNGO活動としての礎になっている。だけどいまになってようやく気付いた。独学の意味がなんであったのか?

当時は、お金がなかったこと、(したいことがありすぎて)時間がなかったこと、好きなときに好きなことをしたいこと(誰かに教わると、気分が乗らないときでもしなければならないから楽しくない)の三つの理由であった。ところが、独学でやっていくとなると、なぜ学問するのか、なぜそれを勉強するのか、どこまで範囲を拡げる(または絞りこむ)か、限られた時間でどのようにすれば、理解か進むかといったことを心がけてきた。つまり自分に対して問いかけ続けてきた。

その無意識の作業こそ、「判断」であったとわかった。人生は一瞬一瞬分岐点が訪れる。スーパーに行くのか行かないのか、そこで何を買うのか、いくら買うのか、行かないとすれば何をするのか、どちらがしたいことなのか、役立つことなのか…。それらはすべて人生を自らの意思で人生を選び取っていく作業。言い換えれば、人生は意思決定の連続(プロセス)とその結果現れる果実(因果関係)なのだともいえる。

突き詰めれは、「いかに生きるか」にたどりつく。自分の生き方を決められないからサラリーマンがつまらないのではない。他人が決めたレールを歩かされるからつまらないのではない。ただ自分が判断することを放棄した生き方がつまらないのだ。その意味では自由そうに見えるフリーターもサラリーマンと少しも変わらない。自分がやりたい理念と人生戦略がない人は少しも自由でないし、自分を生ききっていない。大切なのは、どのような理念と価値観で日々を過ごすかである。

十代で、自分のレールを自ら引いて歩んでいくことを決意し、実践してきたぼくにとって、今という一瞬はとても大切なのもの。学問が好きで、実践することが好きで、わくわくしながらこれからも生きていこうと思う。

十年をひとつの単位にして、やりたいことをやる時間、仕事に励む時間などを混ぜていく循環型の人生も悪くない。

無目的の勉強を愉しむ人が増えてきた。それはいいことだと思う。なんとかしなければ…の強迫観念は何のため?ということに気付けば、半世紀をかけて好きな勉強を独学で続ける人生もありうるんだなと思えてくる。

ぼくは百年勉強するつもり。学問は、脳が欲しがる呼吸みたいなもの。勉強は無目的の遊びであって精神的な愉しみ。

自分のやりたいことをやりきることが(結果として)未来に光を投げかけるような生き方に共感してくれる人がいつかきっと現れ、力を合わせて生きていけることを夢見ている。
(2003年5月11日)

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